いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

あなたの信じたとおりになる

 


 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。 マタイ8:13

 

 信仰とは、「意志の働き」です。
 信仰とは、「自分の意志による選択」です。
 

 神のみことばである聖書は、「すべての人は、罪を犯した(ローマ3:23)」と断言しています。
 しかし、聖書はまた、「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされる(ローマ4:5)」と、証言しています。

 私たちクリスチャンは、この聖書のみことばは真実であると、信じ受け入れて、神の御前に義と認められ、「約束の聖霊(ガラテヤ3:14)」を受けました。
 これは、紛れもなく、私たちの「意志による選択」でした。
 

 まだ救いを受けていない人々は、自分の意志で、生けるまことの神を拒むことを選択しています。生けるまことの神は、目には見えないからです。彼らにとって、天地万物をお造りになった神のご臨在は、何のリアリティーもありません。
 リアリティーとは、本来、「事実そのもの」であるべきですが、肉体の限界を持つ人間にとっては、極めて主観的なものです。
 

 たとえば、Aさんが、読んでいた新聞をテーブルに放置したまま席を外したとします。その後やってきたBさんは、放置されている新聞を見て、善意から片付けて、立ち去りました。
 Aさんが再び戻ると、新聞はテーブルにはありませんでした。このとき、もしAさんが、「誰かが善意で片付けてくれたんだ。」と思うなら、「善意で片付けられたこと」が、「Aさんのリアリティー」となります。
 しかし、Aさんが、「誰かに悪意で新聞を隠された。」と思うなら、「悪意で隠されたこと」が、「Aさんのリアリティー」となります。
 

 「正しい事実」は、本来ひとつです。Bさんは、善意で片付けたのです。
 誤解して憤慨しているAさんに、Cさんが「正しい事実」を伝えたとします。
 もし、Aさんが、それを信じるなら、「誤ったリアリティー」は修正され、「正しい事実」が「Aさんにとってもリアリティー」となります。
 しかし、Aさんが、Cさんの言葉を信じないなら、たとえ「正しい事実」がどうであれ、「悪意で隠されたこと」は、依然として「Aさんにとってはリアリティー」なのです。
 

 信仰とは、私たちが、何をリアリティーとして、選び取っていくかにかかっています。
 私たちは、初めに、「目に見える現実」ではなく、「見えない神(コロサイ1:15)」を、イエス・キリストと、聖書の証しを通して、真実=リアリティーとして、選び取りました。

 

 エリヤはエリシャに、「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから。」と言ったが、エリシャは言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。 Ⅱ列王記2:2

 それからエリヤは彼に、「エリシャ。ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから。」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコに来た。 Ⅱ列王記2:4

 エリヤは彼に、「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから。」と言った。しかし、彼は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、ふたりは進んで行った。 Ⅱ列王記2:6

 

 エリシャは、「堅い意志」を持って、どこまでもエリヤにつき従いました。
 エリシャの「意志による選択」の根拠は、「主は生きておられる」ということでした。エリシャにとって、神が生きておられることは、常に圧倒的なリアリティーでした。

 目に見えているものを、リアリティーとして受け入れることは、容易ですが、現在、目に見えていないものを、リアリティーとして受け入れ続けるためには、不断の信仰、「生ける神を信じる意志」、「みことばに堅く立ち続ける意志」が必要です。
 私たちの戦いとは、ただただ「意志の戦い」です。「行ないの戦い」ではありません。

 

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 エペソ6:12


 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。 Ⅰテモテ6:12

 

 信仰とは、「意志による選び」です。サタンが見せる現実、幻想をリアリティーとして受け入れてしまうのか、聖書のみことばをリアリティーとして選び取っていくか。
 私たちは、自分の責任で、選び取ったリアリティーにしたがって、「あなたの信じたとおりに」、神から報酬を受けるのです。
 

 「選び取る」ために、力は必要ありません。私たちは、何も力んで、選ぶ必要はないのです。
 生けるまことの神がおられること、聖書のみことばには何の偽りもないことは、初めから「正しい事実」なのですから。
 歯を食いしばって、「神(みことば)を選択しよう」と思うなら、それは神を信頼していない証拠です。
 駅のホームで、「私は、電車の運行会社が書いた時刻表通りに電車が来ると、堅く信じよう。」と、こぶしを握りしめながら、待っている人はいないでしょう。

 

 たとえ、「私には、できない。」と「感じた」としても、「それは人にはできないことですが神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(マルコ10:27)」 という聖書のみことばを、単純に信じ、リアリティーとして選び取るのです。
 私には、隣人を愛することができないかもしれません。けれども、神はその人を間違いなく愛しておられます。
 私はその人を愛していると「感じない」かも知れませんが、私のうちに住んでおられるキリストはその人を熱く愛しておられることを、聖書のみことばによって、素直に受け入れるのです。
 そのとき、キリストの愛は、私の心においても、リアリティーとして実現するのです。

 

 恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。 ダニエル10:12

 

 単純に、「心を定め」ましょう。神と、みことばに、心の向きを定め、神の御前にへりくだることを「決め」ましょう。
 神が生きておられることは事実であり、聖書のみことばには偽りがなく、「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である(Ⅱテモテ2:13)」ことに、単純に安息しましょう。

 

 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。 ガラテヤ5:6

 

 神を愛しているのなら、神を信じましょう。神に信頼しましょう。
 私たちは、この揺れ動くことのない神のうちに、変わることのない聖書のみことばに、神が与えてくださる平安に、とどまり続けることを、「意志を用いて」、絶えず選び続けていくのです。
 聖書のみことばに、従順に「然り。アーメン。」と答え、この世の惑わしに、単純に「否。」と、答えましょう。

 

 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 ヨハネ8:31-32
 

 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 エペソ1:17-19