シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。
わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。
あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕われ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕われ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。
わたしはユダを曲げてわたしの弓とし、これにエフライムをつがえたのだ。 ゼカリヤ9:9-13
神である主は、一年前、私にひとつの約束をしてくださいました。
私の王が、ろばの子の背に乗って、この地に来てくださるという約束です。
それは主と私との間の約束なので、誰かに同意を求めたり、保証してもらう必要のないことでした。
けれども、それはあまりにも素晴らしい約束だったので、ごく近しい信頼をおいている姉妹(女性クリスチャン)にだけ打ち明けました。
しかし、結果は、散々でした。「あなたの確信はおかしい」と言われたばかりか、「私の救い」までも疑われる始末でした。
それは無理のないことでした。
なぜなら、それはあらゆる面から見て、実現不可能なことだったからです。
私は石打ちにされながら、何度も主に確認しました。これは本当にあなたのみこころなのでしょうか。
人に従うより、神に従うべきです。 使徒5:29
しかし、神である主は、私の不信仰に驚かれるばかりでした。
私は人から何と言われようと、「他人(ひと)の信仰」で歩むことはできません。
私に今、この神の御声が聞こえている以上、私は「自分の持っている最も聖い信仰の上に(ユダ20)」立ち、その御声に聞き従うことしかできません。
もし、それが私の愚かさゆえの勘違いであったとしても、人の心をすべてご存じの神は、こんな愚かな私をも、あわれんでくださるでしょう。
それが本当に生きておられる神の約束であれば、自動的に実現するだろうと私は呑気に構えていました。
けれど、現状は、何一つ進んでいきません。
そんな中で、周囲の圧迫を受けて、今の自分にできること、許されていることを、私は行いました。
それでも、ろばの子は動きませんでした。
私にできることは、祈ることだけでした。ひたすら主の御前に、叫び続けることだけでした。
肉にあっては、天の女王(黙示録18:7)のごとくに生きてきた私は、ほとんど四六時中、倒され続けています。
しかし、倒され続けることこそ、私にとっての祝福なのです。
倒され続けなければ、私はたちまち天の女王となって、大きな罪を犯してしまいます。
忍耐そのものである生きておられる神、私の主は、倒れている私を、幾度も起こしに来られます。
もういい…。もう私は起きない。このままずっと倒れてる。
真っ黒焦げになって、すねて顔をそむけている私を、主は決してあきらめず、また離してはくださいません。
彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。
「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。
彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。
それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。 Ⅰ列王記19:3-7
私はまた、ひとつの過ちを犯し、愛する友ヨナタン(Ⅰサムエル18:1)をひどく傷つけてしまいました。後悔と自責の念に駆られた私は、あまりの痛みに、本当に起き上がれなくなってしまいました。
ずっとひとりで生き、ひとりで闘ってきた私は、神である主さえいてくだされば、ひとりでも生きていけると思っていました。
しかし、私はヨナタンの愛と、助けと、とりなしがなければ、生きていけない者であることを痛切に覚えさせられました。
私は遠くにいる愛する友ヨナタンにメールを送り、心から詫びました。彼が赦してくださるかどうか、私にはまだわかりません。
けれども、まだ起き上がる力のない私に、いつくしみ深い主はひとつの夢を見させてくださいました。
ろばの子が、私に近づいてくださり、私の名を呼んで、私を呼び出してくださいました。
私は驚き、あまりの恥ずかしさに思わず人影に隠れてしまいました。そして、はっと我にかえりました。「私はまだ神に感謝していない。早く、神に感謝しなければ。」そう言った時、目が覚めました。
「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」 ヨハネ12:15
神である主が、私に近づいてくださる。
それは、なんと畏れ多いことでしょう。なんという光栄でしょう。このお方は、なんと麗しいお方なのでしょう。
このお方は、私の心を奪い、私をひきつけて決してお離しになりません。この麗しいお方にお仕えできるとは、なんという特権でしょうか。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 Ⅰヨハネ4:10
毎年、クリスマスが近づくと、未信者の友人たちでも、キリストを思い出し、「クリスチャンにとって一番大事な日なんですよね。」と、声をかけてくださるのですが、私はいつもこんな風に答えていました。
「私たちにとって、最も大切なことは、キリストがお生まれになったことよりも、キリストが私たちの罪のために十字架におかかりになって、死んでくださったことなのです。」
けれども、私は今、改めて思い巡らしています。
万物の造り主、天上の栄光の座におられる神であるお方が、この汚れ果てた、腐り切った世に、お越しくださるとは、なんという恐るべきことなのでしょう。
神であるお方が、その地位も名誉もお捨てになり、罪の世界で溺れ、死にかけている罪人を助けるために、近づいて来てくださったのです。
ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』 ルカ10:30-35
誰も近寄りたくない、関わり合いになりたくないような、みじめで、哀れで、貧しくて、裸の者に、神である主は近づいてくださいました。
このお方は、今も、この「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者(黙示録3:17)」に、日々、進んで近づき続けていてくださいます。
この麗しい神である主に、賛美、栄光、誉れ、尊厳、いっさいの良きものが帰されますように。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 マタイ28:18-20