いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「義の囚人」からの解放

 
 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。
 いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。
 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。
 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 ローマ14:13-15

 

 ひとりの姉妹(女性クリスチャン)が、落ち込んでいます。
 「平安って、どういうものでしょう…。」
 「え?平安…?、…。そんなこと、じっくり考えてみたこともないけど…。それは、体験するものであって、あまり頭で考え込んでも、有益ではないと思うけど…。」

 

 彼女は、以前、ある姉妹から、「あなたは平安だと言っているけれど、あなたの平安は間違っている。」と言われ、それ以来、「平安」がわからなくなり、「正しい平安に、早くたどり着かなければならない」とプレッシャーを感じてしまっているようでした。
 今の彼女にとって、「平安」とは、あたかもひとつの苦役、呪いの言葉のようです。

 

 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。 ローマ8:6

 

 彼女に助言を与えた姉妹は、「御霊の平安」と「肉の平安」の違いを、彼女に気付かせてあげたかったのだと思いますが、それは「御霊の平安」を体験したことのない幼子に、非常な混乱を引き起こしていました。

 彼女との交わりを通して、多くのことを考えさせられました。
 恐らく、私も同じようなことを、多くの兄弟姉妹に対して、無思慮にしてきてしまったであろうことが心に刺さり、本当に悔い改めさせられました。
 

 私たちは、それぞれ神である主から、さまざまなお取扱いを受け、聖書のみことばを「知識」としてだけではなく、私たちのうちに生きて働く神のみことばとして「体験」していきます。
 「みことばを体験すること」は、クリスチャンにとって、何ものにも代えがたい大きな喜びです。
 それは、「死んでいた文字」が、「いのちのことば」に変わる瞬間であり、霊の目の「おおい」が取り去られ、「いのちの光」を見る瞬間です。
 

 ひとつのみことばを体験させられた者は、ぜひこの喜びを分かち合いたい、他の人にも体験してほしいと願うようになります。
 しかし、すべてのことには神のときがあります。

 

 エルサレムの娘たち。私はあなたがたに誓っていただきます。
 揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。 雅歌8:4

 

 私たちの先祖アダムは、「善悪の知識の木」の実によって、汚されました。
 以来、私たちは、あまりにも「正しいこと」「正しくなること」にとらわれてしまってはいないでしょうか。
 

 私たちは、テストで良い成績を取ることは、「正しいこと」だと思っています。
 失敗、ミスをしないこと、人に迷惑をかけないこと、早く、効率的に、多くの仕事ができること、最短距離、最小コストで目標を達成することが、「正しいこと」だと思っています。
 いったい神様は、このような「正しいこと」を望んでおられるのでしょうか。

 

 天は神の義を告げ知らせる。まことに神こそは審判者である。セラ

 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」

 

 しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。

 こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。
 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」詩篇50:6-23

 

 義である神様は、ダビデも歌ったように、「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:16-17)」
 

 私たちは、「正しいこと」を行えば、義なる神様が喜ばれるだろうと「考え」がちです。
 旧約の時代は、「神の律法」を守り行わなければ、「正しい(義)」とされませんでした。
 しかし、失敗することなく、完全に、神の律法を守り行うことのできた人は、誰一人いませんでした。
 

 失敗したとき、罪を犯してしまったときは、その都度、いけにえを捧げることで、神様から罪を赦されましたが、神様はいけにえを望んで、喜んでおられたのではありませんでした。
 神様が本質的に望んでおられたことは、「罪を悔いた心」「砕かれたたましい」でした。
 私たちはだれもみな自力では、決して「正しい者」になれません。
 

 それゆえ、父なる神様は、御子イエス様をただ一度で、完全ないけにえとして、私たちの罪のために備えてくださいました。
 私たちは、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3-4)」を、「信じて義と認められ」ました。
 私たちは、ただ信仰によって、「義と認められ」ています。
 私たちを義とするものは、「信仰のみ」です。信仰以外の何かによって、「正しい(義)」と認められることはありません。
 

 私たちは、もはや「義の囚人」「律法の奴隷」とならないように注意しましょう。
 自分の考える「正しいこと」にとらわれないように。「正しくなること」を第一目標としないように。
 私たちは、すでに「信仰によって」、「正しい(義)とみなされている」のですから。

 

 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。 Ⅰコリント3:7

 このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。 コロサイ2:19

 

 私たちが、早く成長させようとか、正しくなければならない、と考え始めるとき、神の宮は、苦しみの場所と化してしまいます。 
 少しばかり成長した者は、「鷹の目」で幼子たちを監視し、幼子たちは、「正しく歩めない自分」が獲物とされないように怯えています。

 

 あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。
 敵は私のたましいを追いつめ、私のいのちを地に打ち砕き、長く死んでいる者のように、私を暗い所に住まわせたからです。それゆえ、私の霊は私のうちで衰え果て、私の心は私のうちでこわばりました。 詩篇143:2-4

 

 義なる神様は、愛なる神様でもあります。
 もし義なる神様が、「正しくあること」に固執するなら、私たちはみな滅ぼされなければなりません。
 しかし、全能者であられる神は、義と愛を、キリストの十字架によって、ひとつとしてくださいました。

 

 恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。
 まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。
 まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。
 義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。 詩篇85:10-13

 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。
 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。 イザヤ32:17-18

 

 神は、人の考える「正しいこと」の実現をお求めにはなりません。
 神がお求めになる「人の義(正しさ)」とは、ただ信仰、生きておられる神様を信じることです。
 神様が最もお喜びになることは、私たちが神様を愛し、私たちが互いに愛し合うことです。

 

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 マタイ22:36-40

 

 幼子たちに、「正しくあること」を押し付けないようにしましょう。
 正しい成長などありません。私たちはみな、失敗を通して、みことばを体験し、成長してきたのです。
 つまずき転んで、倒れていたときに、神様が愛の御手をもって、力強く起してくださり、回復される恵みを、より深く味わってきたのです。

 願わくば大きな罪から守られて、主に対してまっすぐに成長できるように導きましょう。
 パン種のない純粋なみことばのパンによって、キリストをさらに深く知り、昨日よりももっと、混じりけのないきよい心でキリストを愛することができるように、「信仰に始まり信仰に(ローマ1:17)」進むことができるように励ましましょう。
 

 「鷹の目」ではなく、「鳩の目」で見守り、励ましましょう。
 霊的な人の目は、「鳩の目」のようです。それは、大きく開かれた、単純で明るく、温かみのある目です。
 「鳩の目」で見つめられると、「私は受け入れられている。」と安心し、心を開いて、正直に心の内を打ち明けることができるようになります。

 正直こそ、成長の第一歩です。正直から始めなければ、どんな成長も期待できません。
 正直は、安心です。正直は、決して動じることがありません。
 

 もし私たちが、直接、目に見える「人」を見ているならば、その成長が遅くて残念に見えたり、悲しく思われ、私たちの目はどうしても暗く曇ってきてしまいます。
 けれど、そんな目で見つめられた幼子たちは、どんなに辛く、いたたまれない気持ちにさいなまれてしまうでしょう。
 私の信仰は、ダメなんだ…。私は兄弟姉妹の期待に応えられていない…。私は受け入れられていないんだ…。
 

 しかし、私たちが霊の目を大きく見開いて、「目の前の人」と、「私」との間におられる「見えない神様」を見つめ続けるなら、私たちの目の中の雲、霧は晴れて、明るく喜びに満ちた「鳩の目」になります。
 もし、私たちが「見えない神様」を見続けるなら、「目の前の人」は、「私」ではなく、「私の目の中に住んでおられる神様」を見ることができるようになるでしょう。
 

 成人した者たちは、この成長させてくださる神様に信頼し、期待して、幼子たちが「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ(ユダ20)」ていくことができるように、「鳩の目」をもって、霊のパンであるみことばを与えて養い、日ごとさらに、純真なきよい心で主を愛することができるように励ましましょう。
 

 父なる神様。あなたは、無知で愚かな私たちが、何度失敗しても、決してとがめだてすることなく、悔い改める者に幾度も変わらぬ愛を持って、手を差し伸べ、養い続けてきてくださいました。
 あなたは道を踏み外してつまずき泥だらけになった私たちを、受け入れて赦し続け、温かな手で洗いきよめて、やさしく拭ってくださり、回復させ続けてきてくださいました。

 どうか私たちが、「自分の義」を立てようと焦り、互いの信仰をさばきあうことがないように、助け、お守りください。
 あなたへの信頼と期待、祈り、また、日々の純粋なみことばのパンによって、互いに助け合い、励まし合って、成長していくことができるように、私たちに知恵と愛を増し加えてください。

 

 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。 Ⅰヨハネ4:7-12