いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

謙遜とは、自分の場所にとどまること

 

 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 コロサイ3:12

 

 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 ローマ12:10

 

 聖書は、繰り返し、私たちに「謙遜」であるようにと、命じておられます。
 私は長い間、「謙遜」とは、非常に過酷な命令のひとつだと感じてきました。
 なぜなら私は、「他の人よりも、すぐれた人になりなさい。」、「自分に自信を持ちなさい。」と教えられ、この世の「勝ち組」になるように求められてきたからです。
 

 冷静に考えれば、すぐれた人物であること、自分に自信を持つことは、決して悪いことではありませんし、それらと、謙遜であることの間には、何の矛盾もありません。すぐれた人物でありつつ、謙遜であることは可能です。
 

 しかし、現実の私は、少しもすぐれた人間ではないので、自らを高く見せかけようと焦っていたのです。
 この状態で、へりくだるということは、明らかに矛盾しています。
 せっかく苦心して作った「あげ底」を、ぺちゃんこにしてしまうと、私は人から馬鹿にされ、生存価値すらない者とみなされてしまうのではないかという恐怖感が私を襲ってきます。
 それゆえ、私はいつまでたっても、「あげ底」を手放しきれず、謙遜が過酷な命令となるのでした。

 

 私たちは、まず初めに、「本当の自分の姿」をしっかりと見つめ、受け入れる勇気が必要ではないでしょうか。
 「本当の私」、「現実の私」は、自分自身で思っているより、はるかにみじめであわれな者です。
 

 神である主は私たちに、そのことを悟らせようと、それぞれの人生で様々な困難、試練を与えてくださいます。
 私たちは、祈りをもって、主に拠り頼みつつ、それらの困難に立ち向かおうとします。
 しかし、それでもなお、何度も、何度も、倒されるのです。
 

 祈りが足りないからでしょうか…。
 信仰が足りないからでしょうか…。
 主が私を愛していないからでしょうか…。

 

 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 マタイ19:20

 

 それは、「私の何かが不足しているから」ではありませんでした。
 かえって、「私の何かが余計だから」でした。
 「私の自我」が、依然として、私のからだを占拠しており、それがとても尊大だからでした。

 

 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。 マタイ19:21-22

 

 私たちは、まだ「自分たちは、何かできる」と思っています。
 神である主にお願いすれば、「きっと、自分たちはやり遂げることができる」と考えています。

 私たちは、あまりにも自分自身について、無知なのです。
 私は、四六時中、倒され続けています。
 そして、倒されるたびに、「自分とは、こんなにもできない者だったのか…」、「私は、これほどまでにあわれで、みじめな者に過ぎなかったのか…」と、徹底的に、「本当の自分の姿」を知るように導かれています。
 

 「私自身が知っていた私」とは、なんと虚飾と欺瞞に満ちた「偽り者」だったのでしょう。
 次から次へと、主によって、化けの皮をはがされて、むき出しになってきた「私」は、なんとみすぼらしく、弱々しい、血まみれの者なのでしょう。

 

 あなたの起こりと、あなたの生まれはカナン人の地である。あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった。
 あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく、水で洗ってきよめる者もなく、塩でこする者もなく、布で包んでくれる者もいなかった。
 だれもあなたを惜しまず、これらの事の一つでもあなたにしてやって、あなたにあわれみをかけようともしなかった。あなたの生まれた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。
 わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ。』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ。』と言った。 エゼキエル16:3-6

 

 これが「私の真の姿」でした。
 それがどんなに、みじめで、悲しく、あわれな姿だったとしても、私たちは「現実」を「事実」として、受け入れなければなりません。
 「都合の悪い現実」、「受け入れがたい事実」から目をそむけても、何の解決も、解放もありません。
 

 私たちは、「正直」から始めなければなりません。
 「真実」という土台の上にしか、「真実なもの」は、決して築き上げることができません。
 「虚飾」の上に、「豪華な神殿」を築き上げたとて、父なる神様に何の誉れでしょう。

 

 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。 Ⅰコリント1:27-29

 

 「私たちの真実の姿」が、どんなに情けないものであったとしても、主は、このように「愚かな者」、「弱い者」、「取るに足りない者」、「見下されている者」、「無に等しいもの」を選んでくださいました。
 ですから、私たちは、「自分たちの真実の姿」を、嘆くことなく、かえって喜んで、正直に、素直に受け入れましょう。

 

 七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。 出エジプト記16:29

 

 主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。 ユダ6

 

 神様は、私たちにそれぞれ「自分の場所」を与えてくださいました。
 「謙遜」とは、はるか彼方にあって到達しなければならない過酷な目標ではなく、「ただ自分の場所に正しくとどまること」でした。

 

 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。 ルカ23:41

 

 私たちに最もふさわしい「自分の場所」とは、「十字架」です。
 罪人であった私たちは、本来、十字架上で死刑に値する者でした。
 十字架上で、人々から、ののしられ、あざけられ、さげすまれることこそ、私たちの受けるべき報酬でした。
 「十字架」こそ、私たちに最もふさわしい、正当な報いです。
 しかし、この十字架は、苦難で終わることのない、必ずよみがえりに至る、私たちの希望の門としての十字架です。
 

 私たちは、いつも、この「自分の正しい居場所」である「十字架」に立ち返りましょう。
 大層なことをしようと努力する必要はありません。
 ただ自分の場所に、素直で従順な心で、子どものように座っていること、それが「謙遜」ではないでしょうか。

 

 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 Ⅰペテロ5:5-6

 

 日本人である私たちは、「私のような者など、とてもとても…」、「滅相もございません」などと、自らを「人の目に低く見えるところ」に身を置こうと遠慮することを、謙遜と思いがちです。
 

 しかし、私たちの「自分の場所」は、常に神様の主権のもとにあります。
 私たちは、「自分の場所」を自分勝手に考えて、決めるべきではありません。
 神様が高くしてくださるときには、意固地に低い場所にとどまろうと抵抗すべきではありません。
 

 それが人の目に、高く見えても、低く見えても、神様の御目には、同じです。
 私たちには、それぞれ最もふさわしい「自分の場所」が、神様によって定められています。
 いつも、神様が、与えてくださった場所に、柔和な心で素直にとどまり、神様がともにいらしてくださることを、心から喜んで歩みましょう。