いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

真の礼拝者とされる喜び

 


 「人生の目的は神への感謝」と、私は救われたときに主から教えられ、その後も、節々で教えられ続けています。
 「神への感謝」とは、生きておられるまことの神様をほめたたえること、神を礼拝することです。

 「礼拝」とは、「ご利益に対するお礼」ではありません。「神様からいただいた賜物」を喜ぶのではなく、それらすべての「与え主であられる神様ご自身」を喜び、ほめたたえることです。
 

 「礼拝」と聞くと、とても堅苦しい儀式的なものを連想しやすいのですが、私は旅先で、ひとりの兄弟(男性クリスチャン)の礼拝を聞き、感動に胸を震わせられました。

 

 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 ヨハネ4:23-24

 

 大きくがっちりした体格の兄弟の唇から、こぼれ出た礼拝の言葉は、父なる神様に対する、非常に深い内なる感動の泉から、静かに流れ出る清水のようでした。
 「恵み深い、父なる神様…。」

 初めの呼びかけを聞いただけで、彼がどれほど父なる神様を慕い、敬っておられるか、その溢れるばかりの感動が、私の内側にまで注がれてきて、まるで打ち水のように、その場をきよめ尽くしていくのを感じました。

 彼は、とても素直な言葉で、愛し慕う神様の素晴らしいご本質をほめたたえました。
 その素朴な礼拝からは、彼が神様の麗しいご性質に、いかに心を奪われているかが、沁み入るように伝わりました。
 

 私は、その礼拝に触れる幸いにあずかり、「霊とまことによる礼拝」とは、このようなものかと圧倒されました。
 礼拝とは、まことにかぐわしいぶどう酒のようです。それは、父なる神様のお喜びであるばかりではなく、それを分かち合う私たちの心をも、心地よく酔わせてくれます。
 神様は、私たち人間に、この「礼拝」という特権を与えてくださいました。「礼拝」こそ、人生の目的です。
 

 しかし、罪に覆われて盲目とされた人間は、「正しい礼拝の対象である神様」を見失ってしまいました。
 それでも人間は、「礼拝の心地よさ」を知っているのです。神様が人間をそのようにお造りになったからです。
 それで人は、「礼拝すべき何か」、「礼拝の対象」を、探し求めて、さまよい歩くようになりました。人は「礼拝すること」を求めています。それほどまでに「礼拝」とは、心酔わせてくれるものなのです。

 

 彼らはぶどう酒を飲み、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。 ダニエル5:4

 

 ある人は、「愛する者」を礼拝しています。それは、恋人であったり、わが子であったり、芸能人であるかも知れません。「愛する者」をほめたたえ、ひれ伏して、伏し拝み、わが身を削って仕えています。

 ある人は、「成功すること(偉大な記録の達成)」を礼拝しています。偉大な記録の種類は様々です。財産の額であったり、仕事の目標値であったり、何らかの自己ギネス記録であるかも知れません。「その記録」は、自分ばかりでなく、他者にとっても、称賛、礼拝に値するかも知れません。
 

 これら「まことの神様でないもの」を礼拝することを、聖書では「偶像礼拝」と言っています。
 「偶像礼拝」は、天地万物を造られた神様の権威を侮る「罪」であるばかりではなく、的外れな礼拝をしているその人自身をも破壊していきます。
 

 「芸能人と麻薬」に関するニュースが絶えることがないのは、彼らに「成功すること」、「偉大な記録を更新し続けること」が、「義務付けられている」からではないでしょうか。
 「偉大な記録の達成」の礼拝者として、能力を与えられた人々は、本当にあわれです。まるで鼻先ににんじんをぶら下げて走らさせている馬のようです。彼らには休息がありません。
 これらの偶像、誤った礼拝対象は、サタンによってもたらされています。

 

 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」 マタイ4:8-10

 

 人を欺く者、サタンは、絶えず、人間から、「神への礼拝」を盗もうと働いています。
 確かに、サタンを拝む者、偶像礼拝者は、「この世」では、成功し、繁栄しているかのように見えることがあります。
 しかし、彼に与えることが許されているものは、しょせん「この世のすべての国々とその栄華」に過ぎず、一時的な快感をもたらしてくれるに過ぎません。そして、悲しいことに、彼らの内側には、決して安息も、平安も与えられることはありません。彼らは絶えず、手に入れたはずのものを失う恐怖感と闘い続けなければなりません。
 そして、だまされ続けて、「自分の罪の中で死(ヨハネ8:24)」ななければならないのです。

 

 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。 イザヤ44:9-11

 

 先日、ひとりの姉妹(女性クリスチャン)の証を聞くことができました。
 彼女は卵巣ガンと診断されたとき、既に腫瘍は8センチ大となっていました。医者からは、全摘手術をすれば、すっかり良くなると言われていたようですが、あろうことか、摘出時に肥大していた腫瘍がはぜて、ガン細胞が体内に散ってしまい、一挙にステージ4となってしまいました。
 それから6回にわたる抗がん剤治療が始まり、様々な副作用に苦しんでこられたのですが、普段と変わりのない、とても平安なご様子でした。

 

 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。
 神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 創世記22:1-2

 

 彼女はこんな風に証ししてくださいました。
 神はアブラハムを試練に会わせられましたが、それは、「これらの出来事の後」なのです。とても簡単に書いてありますが、「これらの出来事」の中で、アブラハムは神がどんなにあわれみ深く、恵みに富んだお方であるか、どれほど信頼できるお方であるかを、充分に体験させられてきたのです。
 私もそうです。ですから、ガンとわかったとき、「神様、感謝します。」と、すぐに賛美が出てきました。これまでも、神様がくださったものに、悪いものなど一つもなかったのですから。
 ガンと聞くと、すぐに死を連想しますが、ガンでなくとも、私たちは今日、心臓発作で死ぬ可能性も、明日、交通事故で死ぬ可能性もあるのです。そう気付けば、ガンも風邪も同じです。
 むしろ、ガンとはっきりしたことで、今、何を優先すべきか、本当に必要なことは何かを、より吟味することができるようになりました。
 

 確かに、私たちは肉の目で、「これは祝福だ」とか、「これは試練だ」と、一方的に判断しがちですが、愛なる神様は、最善以外のものをお与えになることができないお方です。
 ちょうど「円錐(えんすい)」が、横から眺めると三角形に見え、上から見ると円形に見えるように、それは同じひとつのものです。
 霊の目を開いて「神様のくださった賜物」を見つめ直したとき、すべては祝福であると気づくことができるようにされます。
 

 彼女の証は、まったく力みや頑張りのない、驚くほどフラットなものでしたが、そこには天地万物の主権者である父なる神様への深い信頼と静かな感動がたたえられていました。
 彼女もまた、真の礼拝者でした。 
 

 生けるまことの神様を知らず、神を礼拝することを知らなかった私たちは、今、イエス・キリストの尊い贖いによって、神のしもべたちとされ、神を礼拝する限りない喜びを知らされました。
 この神への礼拝こそ、私たちのいのちであり、永続する力の源です。
 

 今はまだ偶像礼拝の囚人とされている私たちの愛する人々に、この父なる神様と、私たちの主イエス・キリストを宣べ伝えましょう。
 父なる神様を礼拝する喜びに、すべての苦しんでいる者、病んでいる方々が入れられますように。

 

 あなたの愛はぶどう酒よりも快く、あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。それで、おとめらはあなたを愛しています。
 私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。
 王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。 雅歌1:2-4