私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。 ピリピ4:17
聖書の中にある「祝福」という言葉ほど、クリスチャンを混乱させている言葉はないのではないかと思います。
かくいう私も、信仰をもってからも長らく、聖書の「祝福」という言葉の意味を、この世で使われている「祝福」と同義語のように受け取っていたため、実に混乱と苦渋に満ちた歩みをしなければなりませんでした。
この世のボキャブラリーで「祝福」とは、自分の欲しいものが手に入ること、自分の願いがかなうこと、いわゆる「ご利益」のことではないでしょうか。
私はそういう種類の「祝福」を神に願っていましたが、それらはほとんど実現しませんでした。
そして私は、祈り求めることに失望し、自分は神に愛されていないのだと落ち込みました。
こうして私は、「費用と効果、投資と成果、代価と報酬が比例する」かのように思われた仕事に没頭していきました。
当然、父なる神様は、これが大きな勘違いであり、甚だ愚かしい誤算であることを、忍耐強く、明確に教えさとしてきてくださいました。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 マタイ7:9-10
私が求めていた「祝福」は、私の肉の目には「パン」であり、「魚」でしたが、神の目には紛れもない「石」また「蛇」でした。それゆえ、神は愛する子どもに、それらを与えてくださらなかったのです。
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」 ヨハネ9:32-41
私のサイトに訪れてくださる方の「検索キーワード」の上位に、「失望」という言葉があります。
驚くほど多くの神の子どもたちが、この世で失望しているのです。
元気のないクリスチャン、いのちのともしびの消えかかったような生気のない神の子どもたちを見ることは、本当に胸の痛む、悲しいことです。
それはまさに、神の「祝福」に対する誤解と混乱の中にあった、かつての自分自身の姿なのです。
改めて、聖書が語っている神の「祝福」をたどってみました。
神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 エペソ1:3-5
聖書の語る「祝福」とは、霊的祝福です。
それは、本質的に、目に見える祝福ではありません。
アダム伝来の罪の性質を受け継ぎ、「自分の罪の中で死ぬ(ヨハネ8:24)」者に過ぎなかった私たちが、今や、「イエス・キリストによって神の子ども」とされたのです。
なんという驚くべき祝福でしょうか。
イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」 マルコ9:25
生まれながらの罪人は、神を知ることがありません。
生まれながらの罪人は、神を見ることができません。
生まれながらの罪人は、神の御声を聞くことができません。
生まれながらの罪人は、神をほめたたえることができません。
死人は主をほめたたえることがない。 詩篇115:17
しかし、罪に覆われて、盲目となっていた私たちの目は、今やイエス・キリストによって開かれました。
罪に覆われて、神の御声を聞くことのできなかった私たちの耳は、今やイエス・キリストによって開かれました。
罪にふさがれて、神をほめたたえることのできなかった私たちの口は、今やイエス・キリストによって開かれました。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。 Ⅰヨハネ1:1-3
今や私たちは、イエス・キリストによって、神の御前に、聖く、傷のない、「神の子どもたち」です。永遠のいのちをいただいた者たちです。
私たちは父なる神様と、御子イエス・キリストを知らされ、日々、「親しく、生きた交わり」の中に保たれています。
まさにこの世のものではない、人の知恵では思い浮かぶことすらない、驚くばかりの恵み、恩寵、祝福です。
神はこのような、この世のものではない祝福を人に与えようとしておられます。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 創世記1:27-28
それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。
「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。
そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 創世記22:15-18
主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」 創世記24:24
そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 創世記26:12-15
神は、人を祝福されました。
神は、この祝福に満ち満ちた「神の子どもたち」が、ふえ広がることを願っておられるのです。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。 ローマ8:19-24
私たちは、今すでに神に愛されている子どもたち、「キリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって」祝福された者たちです。
私たちは、今すでにこの神の祝福に満ち溢れているのです。
私たちに必要なものは、神ご自身がご存じであり、適切なときに、最善の方法で備えてくださいます。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。
しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 マタイ6:31-33
私たちの父なる神様のいつくしみに、もっと信頼しましょう。
父なる神様は、神の子どもたちが、いつも父なる神様を喜んでいることを、輝きを放ちながら、光の中を歩んでいることを願っておられます。
私たちには、永遠のいのちであるキリスト、すべての富と宝であるキリストご自身が与えられているのです。
最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。
あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。 Ⅰペテロ3:8-9
この神の祝福を、あまねく全地にもたらしましょう。
この無力な、土の器を通して、天にあるすべての霊的祝福が、父なる神様の御手によって、暗やみの中に座っているすべての人にもたらされますように。
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。
さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。 ルカ24:45-53