いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

暗やみの世で、いのちの光を放つ

 


 神である主の恵みによって、私は地方で開かれたいくつかの聖書学び会に集うことができました。
 私はそこで、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。 (ローマ11:4)」ことを知り、大いに励まされました。
 

 ひとりひとりに与えられている重荷、困難や試練の種類は異なりますが、神は確かに、「ひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って(エペソ4:7)」、最善の訓練をしておられるのだと気付かされました。

 

 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。 マタイ25:15

 

 神の分け与えてくださる重荷には、軽重はありません。
 人の目には、五タラントは大きく見えますが、彼にはあらかじめ「五タラント分の器」が賜物として与えられているのです。それぞれの人に、「ちょうど器いっぱい」の重荷が分け与えられているのです。
 大きすぎるとか、重たいとか、つぶやくのはやめましょう。
 

 神の重荷とは、神とともに働くことを「楽しむためのツール」なのではないでしょうか。
 欲しい物が、もし簡単に手に入ってしまったら、確かに嬉しいかも知れませんが、そこには何の感動もありません。

 

 しかし、神によって約束を与えられていても、簡単には手に入れられなくて、あるときは入手しようという考え自体に、まったく可能性がないように感じ、何度も挫折しては、あきらめようと考え、それでも神によって幾度も励まされ、奮い立たされて、ついに手にすることができたとしたら、どうでしょう。
 そこには、もはや説明は不要でしょう。味わった者だけが、味わうのです。

 

 「論理の化け物」である私は、神の福音について、永遠のいのちについて、「暗やみの中に」「死の地と死の陰に」(マタイ4:16)にすわっている人々に、どうしたらわかりやすく説明できるのだろうと、長らくもだえ苦しんできました。
 しかし主は、「死に至る病=論理」の重症患者である私に、「いのちの本質」について、教えてくださいました。

 

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 ヨハネ11:25

 

 「いのち」とは、イエス・キリストでした。
 「いのち」とは、神そのものでした。

 

 神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。 ローマ6:23

 

 神は私たちに、「永遠のいのち」を与えてくださいました。
 「いのちそのもの」である、イエス・キリストを与え尽くしてくださいました。
 なんという驚くべき賜物でしょうか。
 

 人は、「いのち」を説明することができません。「神」を論理によって解き明かすことはできません。
 なぜなら、「いのち」も「神」も、論理の産物ではないからです。
 それは、「善悪の知識の木(論理)」とは、無縁なものです。
 それは、「いのちの木」に、関するものなのです。
 

 「いのち」も「神」も、「人に説明するために」存在しているのではありませんでした。
 それは、味わうために、体験するために、私たちに分け与えられる賜物でした。
 「いのち」について、暗やみに座っている人々に、少しでもわかりやすく説明できるに越したことはありませんが、それは本質的な問題ではなく、「いのち」は、「持っていること」、「いきいきと味わっていること」、「豊かに持つこと(ヨハネ10:10)」が、何よりも大切なことでした。
 

 生まれたばかりの幼子は、「いのち」について、まったく説明することができません。
 しかし、幼子を見た者は、そこに確かな「いのち」を見出します。
 そのいのちは、実にいきいきとしており、輝きを放っています。
 そのいのちは、一万言を尽くすよりも雄弁であり、見る者に圧倒的な感動を与えます。
 
 この圧倒的なリアリティーである「いのち」を、皮相な虚に過ぎない言葉で説明しようと苦心することは、なんと愚かしいことでしょう。
 なんと不遜で、知恵の足りないことでしょう。

 

 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。 ヨハネ6:63

 

 私たちは、永遠のいのちを持っています。
 この永遠のいのちは、人に説明するために与えられているものではありません。
 この永遠のいのちは、神の子どもたちによって、いきいきと、この世に対して「明らかに」示されなければなりません。

 神は、光です。
 光は、すべてのことを「明らかに」します。
 神は、この世に神の義を、「明らかに」お示しになることを望んでおられます。
 光とやみ、善と悪を「はっきりと」区別させ、この世に善を増し加えようと望んでおられます。

 

 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 Ⅱコリント4:6-11

 

 私たちは、今すでに、神の子どもです。
 永遠のいのちを持っています。イエスのいのちをいただいています。
 このいのちを、「明らかに」しましょう。
 

 それは、私の努力によってではありません。
 それは、乾いたぞうきんを絞るような努力ではなく、考え抜いた挙句に、内側からひねり出すような労苦でもありません。

 いのちの本質とは、自然なものです。私は熟睡していても、神は私の心臓を動かしていてくださいます。
 では、私のなすべき分とは、何でしょうか。

 

 わが子よ 汝の心を我にあたへ 汝の目にわが途(みち)を楽しめ 箴言23:26(文語訳)

 

 それは、私の心を、神である主に与え尽くすことです。
 私の心を、キリストへの愛で満たしていただくことです。

 

 永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ17:3

 

 聖書を通して、日々、主が与えてくださるひとつひとつの経験を通して、私たちはより深く、キリストを知ることができます。
 キリストをより深く味わうほどに、私たちの心は、少しずつキリストへの感動と愛で満たされていきます。

 

 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。
 見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。
 見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。
 さらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
 
 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか。」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。
 この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。
 その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。 エゼキエル47:1-12

 

 私たちの心が、内なる感動で満ち溢れるとき、「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富(Ⅱコリント8:2)」となります。
 内にあるものは、必ず外に現れるようになります。内にあふれているものは、必ず外に向かって、あふれ出るようになります。それは、とても自然なものです。

 

 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。
 しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。
 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。 イザヤ60:1-3