終わりの時代を歩む私たちの目の前には、様々な混乱があります。
世の欲の氾濫する中で、クリスチャンたちまでも、「自分を愛する者(Ⅱテモテ3:2)」、「神よりも快楽を愛する者(Ⅱテモテ3:4)」、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者(Ⅱテモテ3:5)」として、バビロンへ捕われて行きます。
まさに、「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代(Ⅱテモテ4:3-4)」です。
迫害とは、必ずしも、突然の困難として襲いかかるものではなく、「キリストの使徒に変装(Ⅱコリント11:13)」したり、「光の御使いに変装(Ⅱコリント11:14)」したり、「義のしもべに変装(Ⅱコリント11:15)」しつつ、ひそかに侵入し、内部をむしばんでいくこともあります。
苦難を避けようとする逸脱もあれば、世の欲から来る逸脱もあります。
どちらの場合も、「無意識のうちに」、「神の命令から逸脱すること」が目的化され、聖書解釈は文脈から離れ、聖霊によらず、自分に都合のよい聖書のみことばだけが利用され、自分勝手な聖書解釈が作り上げられていきます。
預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。 Ⅰコリント14:29
あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。 Ⅱコリント13:5
「吟味する」と訳されている言葉は、ギリシア語で「疑う」という意味で、それは、妙に懐疑的になるということではなく、繰り返し、繰り返し、火によって精錬し、真価をためすという意味なのだそうです。
私たちは、混迷の時代にあって、ますますよく吟味し、「真にすぐれたものを見分け(ピリピ1:10)」、「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守(Ⅰテサロニケ5:21)」り抜くことが、必要だと教えられます。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 箴言3:5-6
もし自分の目や、自分の悟りに頼って、安易に吟味するなら、私たちはたちまち欺かれてしまいます。
絶えず、自分の無力さを覚え、主に拠り頼み、父なる神様に聖霊によって祈り、聖書全体に親しみましょう。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。
もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。 Ⅰペテロ4:12-14
聖書のみことばに堅く立とうとするならば、必ず、「火の試練」は訪れます。
私は、しばしば困難に打ちひしがれ、体力的な弱さによって、惰眠をむさぼろうとします。時代に流された方が、楽で、人から愛される、お得な生き方ではないかと。
しかし、苦難にぶつかって、くじけることは、馬鹿げています。
聖書には、「私たちはこのような苦難に会うように定められている(Ⅰテサロニケ3:3)」と、繰り返し、預言されています。
クリスチャンにとって苦難は、あらかじめ神によって定められた既定路線なのです。
いったい何を勘違いして歩んでいるのでしょう。
神は偉大な芸術家です。
暗やみに、光を。
絶望に、希望を。
苦しみに、慰めを。
試練に、励ましを。
死に、よみがえりのいのちを。
最も高い天上から、最も低い地上の、最も小さく、最も貧しいところへ。
神の描き出されるコントラストの美しさに、私はいつも感動を覚えます。
中途半端な薄暗さでは、光の美しさは伝わりません。
絶望とは、最も素晴らしい福音です。そこにたどり着いた者だけが、光の真の美しさを見ることができるのです。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。 マタイ5:10-12
私たちには、どのような迫害、試練の中にあっても、喜ぶ力が与えられています。
なぜなら、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者(ローマ8:37)」だからです。私たちは今すでに、「悪い者に打ち勝った(Ⅰヨハネ2:13)」のです。
喜びましょう。勝利を高らかに笑いましょう。
試練に打ち勝つ力とは、「笑う力」ではないでしょうか。
困難に打ちひしがれそうになった時には、大声で笑い飛ばしましょう。
何を笑うのでしょう。自分の無力さを知って、笑うのです。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。(マルコ14:29)」と、思いあがっていた自分の愚かしさを知って、笑い飛ばすのです。こんな自分の真の姿を知らなかった、己の救い難い無知と絶望を知って、笑い飛ばすのです。
そして、こんな私をも愛されて、いのちをお捨てくださった主の愛の偉大さを覚えて、主がすでに悪魔に勝利されたことを覚えて、泣きながら喜びましょう。
ただ、この神にだけ、確かな希望があるのです。
こう言って、ようやくのことで、群衆が彼らにいけにえをささげるのをやめさせた。
ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。 使徒14:18-20
私は、このパウロの姿が好きです。
群衆から石打ちにされて、ほとんど死にかけていたのに、次の瞬間には、まるで何ごともなかったかのように、すっくと起き上がり、平然とすたすた歩いて行くパウロ。
彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。 使徒14:21-22
この信仰に、この神の福音に、私たちも絶えず、励ましあい、元気よく、しっかりとどまりましょう。
私たちは勝利の道を歩んでいるのです。
しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 Ⅱテモテ4:5-8