一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。
第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。
第四の川、それはユーフラテスである。
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 創世記2:10-15
静かに目を閉じて、罪を犯す以前の、エデンの園におけるアダムの安息について、思い巡らすときが私は好きです。
彼は単純でした。彼は素直でした。彼は神である主に信頼していました。
彼には「信仰」という言葉すら必要なかったでしょう。
それゆえアダムは、毎日を喜び、楽しんでいました。
彼には、何の計画もありませんでした。何の願いもなかったでしょう。
それゆえ彼は、あらゆる思い煩いから解放されていました。
彼には、「比較対象」がありませんでした。
過去と現在の進歩について、比較する必要がありませんでした。現在と将来を比較して、計画を練る義務もありませんでした。
他者と比較して、自らの価値を推し量ったり、強化したりする労苦もありませんでした。
彼は、神である主が、「それは非常によかった。(創世記1:31)」と認めてくださった者であり、愛され、祝福されていることを知っていました。
彼には、進化の必要がありませんでした。彼は満ち足りていました。彼は幸せでした。
信じた私たちは安息にはいるのです。 ヘブル4:3
私は、心が疲れ果てるとき、アダムの安息を思い起こし、自らのあり方を省みて、悔い改めます。
悔い改めとは、まさに「心の向きを変えること」です。それは、偶像から、神ご自身に、心の向きを変えることです。
その瞬間に、私たちは、まったき神の安息に入ります。何という幸いな特権でしょう。
私は、あの頃のアダムのように生きたいと願っていました。
まったき安息、まったき平安、まったき解放、まったき自由…。
しかし主は、教えてくださいました。
あの頃のアダムは、「十字架の価値」、「十字架の素晴らしさ」を知らなかったことを。
彼はまだ罪を知りませんでした。罪の恐ろしさを知りませんでした。
彼は自分がどのような者であるかを知りませんでした。
それゆえ彼は、贖いの尊さも、素晴らしさも、知りませんでした。
それゆえ彼は、神である主ご自身が、どれほど筆舌に尽くしがたい素晴らしい御方であるかを、真に知ることができませんでした。
それゆえ彼は、「真の礼拝者(ヨハネ4:23)」となる特権には、あずかることができなかったのです。
しかし、今、私たちは、神のあわれみによって目を開かれ、自分という人間が、いかに絶望的で、救いがたい、あわれな罪人であるかを知らされました。
そして、あの頃のアダムが、まだ知らされていなかった「神の奥義である御子イエス様」を知らされました。
今、私たちは、キリストの十字架による贖い、十字架による和解、十字架によって、すべてのものが一つとされるという、「神の奥義」の素晴らしさを知らされ、神と一つとされました。
何という幸いな特権でしょうか。
これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 コロサイ1:26-27
私たちは、この「神の奥義」の素晴らしさを、充分に味わっているでしょうか。
「神の奥義」の素晴らしさをより深く知るためには、まず「自分自身がどのようにあわれな者であるか」を知らなければなりません。
「神の奥義」をより深く知りたいと願う主のしもべたちには、ここに素晴らしい福音があります。
そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイ3:1-2
この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイ4:17
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 ルカ5:32
主イエス様は、暗やみのただ中にお越しくださいました。暗やみの中に、「悔い改めという福音」を届けに来てくださったのです。
「悔い改め」とは、心の向きを、「神ではない何物か」から「神に向けて」、そして、神の御前に、正直かつ素直に「自分の罪を告白して」、単純に「神の助けを請うこと」です。
決して、「自分で解決方法を考え込んだり」、「実際に自分で問題解決をしてから」、神の御前に出ることではありません。
そのようなものは、まだ自分自身の力により頼んでおり、自分自身を神とするものに過ぎず、「自分がどのようにあわれな者であるかを知らない」無知から来るものです。
そのような悔い改めは、「自分勝手な悔い改め」に過ぎず、空しい労苦であり、決して真の平安に至ることはありません。
私たちにできることは、心を唯一の希望である神に向け、解決能力のない絶望的な「自分の罪を告白」し、神ご自身による助けを請うことだけです。
「私はあの人を愛することができません。どうしたら愛せるようになるでしょうか。」と尋ねることではなく、「私はあの人を愛することができません。これは私の罪です。」と、自分の罪を認めて、そのまま告白し、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。(ルカ18:13)」と助けを請えばよいのです。
もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 Ⅰヨハネ1:8-10
「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」が、クリスチャンである私たちであっても、以前と同じ、「死のからだ(ローマ7:24)」を持っている限り、自覚・無自覚を問わず、必ず、何らかの罪を犯しているのです。
私は、「罪を犯してはいないと言うなら」、その人は、「神を偽り者」としているのです。
「示されていない罪は、悔い改められない。」という反論を、しばしば耳にします。
しかし、その「罪に対する自覚のなさ」、霊的感性の鈍さこそ、最悪の罪と言えないでしょうか。
実際、無頓着な私は、なかなか自分の罪に気付くことができません。そして、知らない間に、多くの人を傷つけています。
それゆえ私は、日々、祈ります。「主よ。私が、みこころにしたがって、正しく悔い改めることができるように導いてください。」
他のどんな祈りより、この祈りを通して、私は日々、主に守られていると感じています。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 詩篇51:17
悔い改めは、決して屈辱的な重荷ではありません。
私たちに負いきれない重荷は、すでに主イエス様が負ってくださったのです。
私たちは、ただ心を開いて、罪を告白すればよいのです。何という特権でしょうか。
もちろんそれは、無責任な責任回避で終わることはありません。
罪を告白した時、主は新しく、私たちになすべきことを教えてくださいます。なすべき力も与えてくださいます。
私たちは「私の力によって」ではなく、「主の御力によって」、初めて「悔い改めの実」を結ぶことができるのです。
私たちは、悔い改めるたびに、「新しく神の素晴らしさを知る」ことができます。
それが、「神の奥義」の素晴らしさを、より深く味わっていく唯一の道ではないでしょうか。
それらは、すべて新しい「神への礼拝」へと至ります。
神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。 ピリピ3:3