いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

偶像礼拝からの解放


 
 人となられた主イエス様のもとには、多くの人が会いに出かけました。
 そこには、満足のいく解決を「与えられた者」と、解決を「得られなかった者」がいました。

 

 ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。 マタイ8:2-3

 

 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」 マタイ8:5-7

 

 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。
 家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
 そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。 マタイ9:27-29

 

 彼らはみな、「どうすることもできない問題」を抱えた、「あわれな者たち」でした。
 そして、彼ら自身も、自分には何の希望も、解決能力もないことを、痛いほど自覚していました。彼らは、それを隠しませんでした。彼らは実に正直者でした。
 主イエス様はそんな彼らをあわれみ、満足のいく解決をお与えになりました。

 

 ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」
 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
 彼は「どの戒めですか。」と言った。
 そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。 マタイ19:16-22

 

 この青年も、「ある問題」を抱えていました。彼は、あらゆるものに恵まれ、何不自由なく暮らしていましたが、自分には、「ひとつだけ足りないもの」があることを、「知っていました」。
 しかし、彼は、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること(黙示録3:17)」を、「知りませんでした」。
 それゆえ彼は、主イエス様に、「永遠のいのちをください。」と、素直かつ単純にお願いすればよいことに、気付きませんでした。
 彼は、うかつにも、「獲得する方法を教えてください。」と、方法論を尋ねてしまったのです。
 

 主イエス様は、決していじわるなお方ではありませんでした。押しつけがましい説教をなさることもなく、謙遜かつ真摯に、「彼の求めた答え」をお与えになりました。

 彼は、あらゆるものを持っており、「方法さえわかれば、後は自分でできる」と思っていました。彼にとっての問題とは、「方法を知らないことだけ」だったのです。
 それはまさに、私自身の姿でした。

 

 私にとって切実な問題のひとつは、悪と不正がますます増殖していく時代にあって、クリスチャンである私たちまでも、世の濁流に押し流されようとしていることです。

 私たちひとり一人は、「神から受けた聖霊の宮(Ⅰコリント6:19)」であり、「キリストのからだなる教会」は、「主にある聖なる宮(エペソ2:21)」「御霊によって神の御住まい(エペソ2:22)」です。
 私たちが神の聖所であるならば、「神の聖所の中心」は、常に「十字架」でなければなりません。
 「中心にある十字架」だけが、私たちを激流に翻弄されることから守ってくださいます。
 

 しかし今、私の中心にあるもの、私たちの集まりの中心にあるものは、「十字架」ではなく、「プライド」なのです。
 「十字架」の上に堅く立てられ、そこに「神の愛」が現わされるのではなく、「プライド」の上に立ち、「ヒューマニズム」を表していることを、私は見せられています。

 それは、非常に悪質な罪です。うわべしか見ていないならば、簡単に見分けがつかない巧妙な偽物です。演じさせられている当人たちですら、主によって目を開かれるまで、気付くことができないような代物です。
 当然のことながら、そこには、「かぐわしいキリストのかおり(Ⅱコリント2:15)」はなく、ただ腐臭漂うばかりです。

 

 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。 ローマ2:24

 

 私は、私という聖所の中心に、キリストのからだなる聖所の中心に、「初めの十字架」を回復しなければなりません。
 私は主の御前にうめきながら、ひたすら「解決方法」を求めていました。

 主よ、私は、「どんな良いことをしたらよいのでしょうか。(マタイ19:16)」
 「その方法さえ、明らかにしていただけるなら」、「牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。(ルカ22:33)」、と。

 そしてまた一方で、「私の考えた最善の方法の実現」を祈り求めていました。
 「方法さえ、わかれば…」とは、何という傲慢でしょうか。

 

 エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。
 知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。 ホセア14:8-9

 

 偶像礼拝とは、「天地万物を造られたまことの神」ではない、「別の何か」を主とすることです。
 「私の考え」、「私の感情」を、十字架につけることなく、それに従い、その赴くままに身を委ねているとすれば、それは紛れもない偶像礼拝でした。
 

 しかし、幸いなことに、偶像礼拝の罪は自分自身でも速やかに気付くことができます。なぜなら、偶像礼拝者には、安息がないからです。
 もし私たちが、何かに疲れ果てているとしたら、私たちは知らず知らずのうちに偶像礼拝者となっているのではないでしょうか。

 

 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」 ヤコブ4:14-15

 

 「エデンの園にいた頃のアダムの安息」について、思い巡らすのは楽しいことです。
 私たちも、神である主ご自身だけに注目し、今すでに主と一つにされていることを思い起こしたとき、余計な心配、思い煩いから完全に回復されます。
 目に見えている状況がどのようであっても、すべては主の御手のうちにあり、すべてのことは「プロセスとして主の最善」です。
 ただこの主に信頼しましょう。

 

 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 詩篇37:5