いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神の栄光を現わすとは

 

 
 「神の栄光」とは、いったいどのようなものでしょうか。
 「神の栄光が現わされるとき」とは、どんなときでしょうか。
 私は長い間、「神の栄光」という言葉の中に、漠然と、神の光輝く素晴らしさが明らかにされる、見目麗しく、喜びに満ちたイメージを抱いていました。

 

 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 ヨハネ21:17-19

 

 しかし、ペテロに示されたのは、「どのような死に方をして、神の栄光を現わすか」でした。
 私たちは、もっと格好のよい、称賛されるような方法で、「神の栄光を現わす」ことを願っていないでしょうか。
 

 改めて、「栄光」というみことばをたどり直したとき、それは「価値の大きさを表現するもの」であることに気付かされました。
 「栄光」という少し捉え難い日本語を「価値」という言葉に置き換えて、聖書を読み直すと、その意味が見えてくるような気がしました。

 

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 ヨハネ1:14

 

 私たちは、主イエス様の「価値」を知りました。それは、「神の御子」という比類のない「価値」でした。
 だとすれば、「神の栄光を現わす」とは、「神がどのように価値のあるお方であるかを具体的に現わす」ということに他なりません。
 まだ「その価値」を知らない人々に、「その価値」を伝えるには、良く知られている「別の価値あるもの」に例えて、わかりやすく表現しなければなりません。
 人間が理解できる「最も価値あるもの」、それは「いのち」でした。
 

 主イエス様は、私たちを愛して、神の御目に、「私たちがいかに尊い価値ある存在であるか」を具体的に表現するために、「天を押し曲げて降りて来(Ⅱサムエル22:10)」てくださいました。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びことなく、永遠のいのちを持つためである。 ヨハネ3:16

 

 実に、主イエス様は、「このような死に方をして」、私たちの価値を現わしてくださいました。
 神は、「神のひとり子のいのち」という「価値あるもの」をもって、罪人に過ぎない私たちを、「御子のいのちにも勝る価値を持つ者」としてご覧くださっていることを、「具体的に示して」くださいました。

 

 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 イザヤ53:7

 

 主イエス様は、その口においても、しばしば「無力さ」をお選びになりました。
 冤罪で、まさに死刑に定められようとするに及んでも、自己弁護されることはありませんでした。
 それは、主イエス様が、「他者弁護」のために、来られたからでした。

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 ルカ23:34

 

 しかし、主イエス様の十字架上での、罪人たちのためのとりなしの祈りの「言葉を聞いても」、人々の恐るべきかたくなな心は、開かれませんでした。
 彼らは、ローマの容赦ない鞭打ちの痛みも、十字架の苦しみも、味わったことがなく、何の共感も、憐れみも持ちませんでした。

 

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。 ルカ23:35-37

 

 彼らはただ、神であることの「偉大なしるし」を要求したのです。
 確かに、この徹底した「無力さ」は、人間の考える「全能者=神イメージ」とは、かけ離れています。
 彼らの目には、素裸にされた主イエス様のお姿は、無力なただの人であり、「滑稽(こっけい)な自称、神」としか映らず、お笑い草だったでしょう。
 しかし、「主イエス様と同じ苦しみをともにした犯罪人のひとり」は、「その言葉の重み」に心を開かれました。

 

 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 ルカ23:39-43

 

 彼は、「断末魔の苦しみをイエス様と共有したがゆえに」、この期に及んで尚そのように祈り得たイエス様は、死んで終わるお方ではなく、天の御国の位に着かれる神であることを、悟ることができました。

 

 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。 ルカ23:46-48

 

 しかし、主イエス様が十字架上で、遂に何の奇蹟も行われることなく、最期まで愚直なまでに父なる神様に信頼し通して、悪意ある人々のなすがままに身を任せ、「ご自分のいのちを完全に死に渡された時」、初めて彼らの心は刺し通されました。

 主イエス様は、その死に至るまでの「父なる神に対する忠実さ」によって、父なる神様の「価値」を示されました。
 そして、同時に、神の御目に、どれほど尊い存在であるかという私たちの「価値」をも、具体的にお示しくださいました。

 

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 Ⅰコリント6:20

 

 私たちは、「自分のいのちを捨てる」ことによって、神の「価値」を最大限に現わすことができるのです。
 私たちは、どのくらい「自分を捨てる」ことを受容できるくらいに、主を愛しているでしょうか。

 私たちは、本気で「神の栄光」を現わしたいと願っているでしょうか。
 それは、ただ私たち自身の選択にゆだねられています。
 

 父なる神様。
 どうか弱い私たちが、日々、少しずつ、「自己」を死に明け渡していくことによって、神の「価値」を具体的に表現できるように、助けてください。
 そのことによって、あなたが、私たちのいのちよりも、はるかに尊い御方であることを、暗闇の中におられる人々が、知ることができますように。
 そしてまた、私たちの目がさらに開かれて、この働きが、どれほど恵みに富んだ特権であるかを知り、さらに私たちが前進していくことができますように、いつくしみをもってお導きください。

 

 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 ローマ8:30