いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「キリストの無力さ」を身に着る


 
 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。 創世記3:6-7

 

 エデンの園で禁断の実を食べた時、彼らは自分たちが裸であることを「知りました」。不思議な言葉です。
 それ以前も、彼らは自分たちの裸を見ていました。しかし、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(創世記2:25)」のです。
 

 彼らが「新しく開かれた目」で知った「裸」とは、「自分たちの無力さ」だったのではないでしょうか。

 神がお造りになった最初の人アダムは裸でしたが、神ご自身の目には、「非常によかった(創世記1:31)」のです。
 彼らは以前から裸で、「無力な者」でしたが、全能者である神の守りと、彼らの神に対するまったき信頼の中に、完全に安息していました。
 彼らは無力でしたが、それは従順な子どもとして「恥かしいこと」ではありませんでした。
 

 しかし、「イエスのいのちによって論理を突破する」に書いたように、

 

 

inochinoizumi2007.hatenablog.com

 「善悪の知識の木の実」を食べ、「論理」を知った彼らは、「論理的に善」でなければならなくなりました。
 さらけ出された自分たちの姿は、「善」ではなく、「悪」でした。それゆえ、彼らは自分たちの裸の「無力さ」を恐れました。そして、論理的に「自分たちが善であること」を偽装しようとしました。

 

 そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。 創世記3:7

 

 彼らは自分たちの手で「裸のおおい」をこしらえましたが、真の平安はなく、神の御目には、自分たちは裸であり、罪ある者であり、無力な者であるという認識があり、「私は裸なので、恐れて、隠れ(創世記3:10)」なければならなくなりました。

 

 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。 ガラテヤ3:27

 

 しかし、罪人アダムの子孫に過ぎない私たちの罪と恥を負い、十字架上でいっさいの贖いを完成させてくださったイエス・キリストの救いを信じた私たちは、今、裸ではなく、「キリストご自身」を着せていただきました。
 「キリストを着た私たち」は、全能者であるキリストのゆえに、もはや無力な者ではありません。
 しかし、キリストご自身は、どのように地上を歩まれたでしょうか。

 

 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 ヨブ1:21

 

 キリストは、全能者にふさわしい偉大なお姿で来られたのではなく、「裸」でこの地上に来てくださいました。
 ただ「裸」であっただけではなく、赤子という、無力の極みのお姿を取られて、来てくださいました。
 そして、最期は再び、無力さをお選びになり、十字架に身をお任せになり、「裸」のお姿のまま、天に帰られました。
 

 私たちは、「このキリストの無力さ」を着ているでしょうか。
 私たち自身は、今も、「アダム伝来のからだを持つ無力な者」に過ぎません。しかし、キリストを着る時、よみがえられたキリストの御力に覆われます。
 しかし、人となられたキリスト・イエスは、人の目には、「無力なお姿」で現れ、恥とそしりとさげすみの中で、人々に仕え通してくださいました。

 

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」 ルカ23:35

 

 私たちは、「人の目に無力とされること」を、あまりにも恐れていないでしょうか。
 「無力さゆえに恥をかくこと」を、とことん嫌がってはいないでしょうか。
 主イエス様は、私たちの罪のために、私たち自身が受けるべきすべての恥とそしりと、さげすみをなめ尽くしてくださいました。
 それゆえ、私たちは今、神の御前に罪を赦され、救われたのです。
 

 父なる神様。
 どうか私たちが、自分のプライドのゆえに、いつまでも主イエス様おひとりに、恥を負わせ続けることがありませんように。
 私たちが好む「キリストの一部分だけ」を着ることがありませんように。
 従順で真実な子どもとして、「キリストのすべて」を着せていただいて、どのようなさげすみやはずかしめをも恐れることなく、どこまでも主イエス様に従い通すことを、私たちの唯一、最高の喜びとしてくださいますように。

 

 イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。 ヘブル13:12-13