いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

イエスのいのちによって論理を突破する


 
 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。 創世記2:25

 

 神がお造りになった最初の人アダムとその妻は、裸でした。
 彼らは着物を着ていませんでしたが、「非常によかった(創世記1:31)」のです。彼ら自身も、互いに裸であることを恥とは思いませんでした。

 

 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。 創世記3:6-7

 

 「善悪の知識の木」の実は、いったいどんな目を開き、何を知ったのでしょうか。

 「新しく開かれた目」が、最初に見たのは、「自分たちの裸」でした。その裸は、以前とは異なっていました。
 今や、彼らは、そこに、これまで存在していなかった「自分たちの罪」を見い出しました。彼らの裸は、「彼らの恥」のしるしとなりました。
 けれども、彼らは、「以前の目」でも、単純に善悪を見分けて、神である主が禁じられた実を食べないという良いことを選ぶ力があったのです。
 

 私は、今、「善悪の知識の木」の実がもたらしたものとは、「論理」なのではないかと思い巡らしています。

 以前の彼らは、「神」イコール「真実」、したがって「神が食べると死ぬと断言した」イコール「食べたら必ず死ぬ」、解イコール「食べないことが自分の益」といった論理的な思考に基づいて、禁断の実を食べなかったのではないでしょう。
 彼らは、単純に、神である主とともに生き、「神である主のみことばに従う」ことを、心の喜びとしていたのではないでしょうか。

 

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 創世記2:16-17

 

 神である主は、彼らに「必ず死ぬから(理由)、食べてはならない(命令)」と言われたのではありませんでした。
 神には、「〇〇よ。…あれ。」と、被造物に命じる権威があります。いちいち「理由」を述べたてる必要のないお方です。けれども、神はここで、命令とともに、親切にも、「破った場合に生じる重大な結果」を、お伝えになりました。

 

 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 創世記3:4-5

 

 しかし、蛇は、彼らを「論理の土俵」に引きずり込み、彼らを、「単純な信仰による生き方」から、「複雑な論理による生き方」へと転換させました。
 「論理の世界」では、「理由のない行動」はなく、「合理的な理由」さえあれば、すべてのことは「正当化」されます。
 

 蛇はまず、エバが口にした「死ぬといけないから」という言葉に焦点を当て、「あなたは死ぬといけないから(理由)、食べないのである。」と教えました。
 エバは、そんな風に考えてみたこともありませんでしたが、「そうか。私は死ぬといけないから食べなかったのだ。」と妙に納得してしまいました。
 

 そして、蛇の巧妙なすり替えによって、「行動の動機」とされてしまった「死ぬといけない」という「理由」を、「決して死にません」という「偽り」によって、破綻させました。
 今や、彼らには、食べてはならない「理由」はなくなりました。
 

 さらに、蛇は、むしろ食べることによって、「新たに獲得できる利益」について教えました。
 それらはすべて、「彼らの幸福」に合致しているかのようでした。
 そして、彼らは神である主を忘れ、「蛇の論理」と「彼らの欲望」にしたがって、禁断の実を食べました。

 

 あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 Ⅰコリント10:31

 

 「いのちの君」である神への「愛と信頼」によって歩むことをやめ、「善悪の知識」=「論理」によって歩み始めた彼らは、「単純さ」という特権を失ってしまいました。
 

 アダムは、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。(創世記3:12)」と、神とエバに責任転嫁し、エバ「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。(創世記3:13)」 と自己弁護しました。
 彼らは、素直に自分たちの罪を認めて、謝るのではなく、「合理的な理由」を述べて、論理的に「自分の義」を「自己主張」し始めたのです。
 

 論理の世界で、頼ることができるのは「自分の頭」だけです。その時から、彼らの頭は、休むことが許されない臨戦態勢、フル稼働状態に置かれました。
 こうして人類は、神の守りの御手からさまよい出て、自力救済、自己防衛、自己正当化の囚人となり、自己中心と利己主義の歴史が始まったのではないでしょうか。
 

 実に私は、救われてからも、こうした「論理の化け物」として生きてきたことを、主の光の中で知らされています。
 基本的に私は、意味のない言動はしてきませんでした。無意味、無駄は恥であり、愚かさの象徴に過ぎませんでした。
 

 しかし、「善悪の知識」である「論理」は、「いのち」に逆らい、必ず私たちを「死」に導くのです。「論理」とは、「死に至る病」です。
 「論理」からは「愛」という解は決して出てきません。論理の解は、常に「益」でなければならないからです。愛とは、基本的に与えるものです。いったい愛することに、どんなメリットがあるのでしょうか…。
 

 しかし、一方で「論理」は、「益」のためなら、「愛という手段」をも用いるという恐ろしさを兼ね備えています。
 その「愛に見える行ない」の源は何でしょうか。それは本当に、「論理から導き出された解」ではないでしょうか。

 

 そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
 ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。 エペソ5:15-17

 

 とことん「論理の化け物」であり、論理の世界で果てしなく悩み続ける私に、主はひとつの夢を見させてくださいました。

 ある若者が、こんな歌詞のスローバラードを歌っていました。
 「エルビスは今でも生きている。頼むから、エルビスは今も生きていると俺に歌わせてくれ。彼はもう死んだんだ、なんて言わないでくれ。」

 私は思い出しました。そうです。主イエス様は今も生きているのです。
 「主イエス様のいのち」は今も、私のうちで生きているのです。
 どうして私は、死んだイエスを、論理の世界で探し求めなければならないのでしょう。

 

 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 使徒1:3

 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 Ⅰコリント6:20

 

 主イエス様は今も生きています。この世界の至るところに。生きている私たちのうちに。
 生きている私たちは、自分のからだをもって、「主イエス様が生きている」ことを示せばよいのです。
 論理的に、わかりやすく、巧みな言葉で「主イエス様が生きている」ことを説明できなくてもよいのです。「いのち」は、論理の世界には存在せず、論理によっては決して解くことはできないのですから。

 

 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 創世記3:14-15

 

 女の子孫として生まれてくださった主イエス様は、「蛇の頭」、「論理の源である頭」を、踏み砕いてくださいました。

 

 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 エペソ1:22

 

 今や、神は私たちに、新しい「かしらであるキリスト」を与えてくださいました。
 何と、素晴らしいことでしょう。
 古い頭であくせくするのはもうやめましょう。「かしらなるキリスト」こそ、すべての答えです。

 

 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。 コロサイ2:3

 

 私たちは、すでに与えられている「主イエス様のいのち」を、私たちの生き方において、主イエス様によって表していただけばよいのです。
 そのためには、本当に空の器が必要です。古い頭、論理は主によって一掃していただかなければなりません。
 私たちの無力さを、ただ「主イエス様のいのち」によって満たしていただきましょう。
 「いのち」とは、現実です。「愛」とは、実践です。机の上にあるのではありません。
 それが、どこであっても、主イエス様が行かれるところについて行き、「主イエス様のいのち」に歩ませていただきましょう。

 

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。 Ⅱコリント4:10-12