いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

聖められることを追い求める


 
 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 マタイ7:15-21

 

 私たちは、このみことばを読むと、注意深く見分けなければならないと心を引き締めて、警戒しようと思います。
 けれども、「もしかすると、私自身が、にせ預言者たちのひとりになってはいないだろうか…。」と、恐れたことがあるでしょうか。

 

 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。 ルカ6:26

 

 主イエス様が人として地上に来られた当時、聖書を読み、教えることができたのは、ごく限られた人たちだけでした。しかし、聖書に精通していた祭司長、律法学者、パリサイ人たちは、救い主を見分けることができませんでした。

 「八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者」「きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者(ピリピ3:5-6)」であったサウロでさえ、見分けられなかったのです。

 いったい誰が、「私たちが、先祖の時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう。(マタイ23:30)」と言うことができるでしょう。

 

 あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。箴言3:34

 
 私たちは、ただこの神である主を恐れなければなりません。
 私たちは、「自分を義人だと自任し(ルカ18:9)」「自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任 (ローマ2:17-19)」し始めた瞬間から、「にせ預言者」になっているのです。

 

 神には、助ける力があり、つまずかせる力もあるからです。 Ⅱ歴代誌25:8

 
 すべてのつまずきは、「私は知っている」「私には見えている」「私は聞いている」と思い込んでしまう、その「勘違い」から始まるのだと、私は教えられています。
 確かに、神によって新生した私たちには、キリストの御霊が与えられています。そして、「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。(ヨハネ16:13)」
 しかし、私たちは一方で、まだ古い肉体をまとっています。古い肉体には、「自分に都合の悪いものは見ない」「自分が聞きたくないことは聞かない」という情けない性質が残っているのです。

 私たちは本当に真理を知りたいと、心から願っているでしょうか。
 それとも、私たちの心を喜ばせてくれることだけ知りたいと願っているのでしょうか。

 
 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 ヘブル4:12-13

 
 私たちは、自分自身の力によって、自分をきよくすることは決してできません。
 私は他者の身体については、見ようと思えば360度見ることができます。しかし、私自身の身体については、道具を用いなければ、恐らく半分も見ることはできないでしょう。私たちは自分自身のありのままの姿について、そのくらいに無知な者です。

 肉に過ぎない私たちの、この無知、無力、無能を、全能者なる神の御前に素直に認めて、日々、義なる神の御手による適切な手術を受けましょう。「似たもの(出エジプト30:32)」や、「偽りの実(ホセア10:13)」を取り除かれ、真実な実だけを結ぶことができるように、きよめていただきましょう。

 
 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。
 聖くなければ、だれも主を見ることができません。 ヘブル12:14