いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

十字架の愚かさに立ち続ける

 

 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 Ⅰコリント1:17-18

 

 私たちを滅びから救い出してくださった神の方法は、十字架でした。
 「結局、人は何によって救われるのですか。」と聞かれるならば、「それはキリストの十字架です。」とひと言で答えることができます。
 十字架、それはなんと単純で、愚かしい方法でしょう。なんと深く、真実な方法でしょう。

 「神はイエス・キリストを十字架にかけて、私たちの罪を処分してくださいました。」という単純なメッセージは、子どもでも理解することができ、小学生でさえあざ笑うことができるほど愚かしいものです。

 

 しかし私は、このキリストの十字架によって救われたのです。
 誤解を恐れずに言うならば、私が聖書を理解したからでも、私が悔い改めたからでもありません。
 私は未だに聖書を理解し切れませんし、生涯をかけても真に理解することはできないでしょう。

 たとえ私が自ら犯した罪を悔い改めたとしても、与えてしまった損害はもとには戻りません。私が悔い改めたからといって、神には私を救う義務はありません。

 私は「自分の何か」によって救われたのではなく、ただキリストの十字架ゆえに、その単純な事実を信じるようにと神ご自身が、私の心を開いてくださったがゆえに、救われたのです。

 

 そして今、クリスチャンとして歩み始めた私たちは、この十字架を、どれくらい愛しているでしょうか。どれほど深く知っているでしょうか。どれだけ身を持ってあずかっているでしょうか。

 御霊を与えられた私たちはキリストの知識を増し加えられて、聖書について多くを語ります。神の愛について、良い行ないについて、巧みな言葉で雄弁に語るかもしれません。
 けれども、このキリストの十字架について、恐れることなく、まっすぐに語っているでしょうか。

 あまり十字架を強調してしまうと、愚かしく思われて、聞く耳を持ってもらえないのではないだろうか。かえって、つまずきを与えてしまって、聖書から離れて行ってしまうのではないだろうか…。

 そんな配慮の行き届いた、もっともらしい理屈によって、私たちはキリストの十字架をあまり人目に触れないように、うやうやしく奥の間に安置して、十字架から離れた「おおいのかかった福音」を語ってはいないでしょうか。

 

  しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
 ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 Ⅰコリント1:23-24

 

 マザー・テレサについて、ある方がこんなことを書いておられました。

 「わたしが、大学教授として教壇に立つようなときは、あれこれと話の内容を考える。内容はもちろん、おもしろく聞いてもらえるようにと、ジョークを交えたりしてサービスも心がける。それなのに、学生たちはたいして耳を傾けてくれない。
 ところが、マザーの話はいつも似たような話で、話術が巧みなわけでもないのに、学生どころかインテリの教授たちも、せき払い一つしないで熱心に傾聴するのだ。いったいこれはどういうことか。
 マザーの生の言葉が、わたしたちを強くひきつけるのは、マザーその人自身に迫力があったからにほかならない。真実の迫力である。本物であれば、レトリックなどなくても、それだけで人をひきつける磁力が備わるのだ。知行合一というか、その言葉のすべてが現実の行動に裏打ちされている。それが力の源だ。」

主婦の友社『マザー・テレサ 愛のこころ 最後の祈り』訳者・奥谷俊介氏のまえがきより引用

 

 ときを同じくして、私が出会う以前に天に召されたある兄弟(男性クリスチャン)による16年前の聖書メッセージのテープを聞き、私はひっくり返りそうになりました。
 小柄で普段は物静かと言われていたその兄弟は、実に力強い声で、聖書のみことばを読んでいました。メッセージの内容は、斬新なものでも、奥義を解き明かすようなものでもなく、大半がみことばそのもので、正直、多くの部分は記憶に残っていません。
 けれども、そこには私たちのために貧しくなられた、素裸のキリストご自身がくっきりと浮き彫りにされ、彼が「主とまったく一つにされている」ことが、はっきりとわかりました。

 

 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。Ⅱ歴代誌16:9

 

 主とまったく一つになることができる場所は、ただ一つしかありません。
 それはキリストの十字架です。彼は実に大胆に、「十字架の愚かさ」にしっかりと立っていました。「十字架の単純さ」に敢然と立った者の持つ迫力は、聞く者を圧倒します。
 これまで「賢い十字架」を語ろうと努力してきた私は、「自分の愚かしさ」と無益さゆえに、完全にノックアウトされてしまいました。

 

 「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。 Ⅰペテロ2:6-8

 

 十字架につまずいていたのは未信者ではなく、私自身でした。
 合理的な方法で、賢く家を建てようと試みるクリスチャンが、これはあまり使えない、見栄えが悪いと捨てる石こそ、主の目には尊い、真に価値ある礎の石なのです。

 もう一度、十字架に帰りましょう。
 もう一度、十字架から始めましょう。
 いつも、毎日、絶えず、十字架から始め、十字架の門をくぐり、キリストの十字架を表現しましょう。
 そして、すべての人の口が開かれて、十字架によって万物を、神と和解させてくださったキリストの栄光と、神ご自身のはかり知れない知恵がほめたたえられますように。