いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

主のために自分のいのちを注ぎ出す

 



 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 ヘブル12:2

 

 

 私たちクリスチャンは、人を見るのではなく、状況を見るのではなく、いつも主イエス様を見続けるようにと、教えられています。
 主イエス様から目を離したときに、ペテロのように、「風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください。』と言った。(マタイ14:30)」とおりになるのだと。

 

 それゆえ、私たちはいつも主を見つめています。
 けれども、私たちはいったいどんな目で主ご自身を見つめているのでしょうか。

 

 

 彼らは私をながめ、私を見ています。
 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。 詩篇22:17-18

 

 

 

 ひょっとしたら私たちは、十字架にかけられた主イエス様を、ただ剥ぎ取る対象として眺めてはいないでしょうか。どうやって、イエスから祝福を絞り出してやろうか…。できれば、下着までも自分のものにならないだろうか…。
 少々、言葉が過ぎるかもしれません。失礼があれば、どうかお許しください。

 

 

 けれど、私は私の内に潜んでいたこのような思いを、主の光によって照らし出されています。
 それが、決して自分自身の祝福ではなく、他の人々の祝福を求める祈りであったとしても、主イエス様をあたかも、祝福を小出しにされる、或いは出し惜しんでおられるケチくさいお方でもあるかのように感じ、必死になって絞り取ろうとしているかのようです。

 

 

 私はいったい、私を愛し、私の罪のために十字架の上で、いのちを注ぎ出してくださった主イエス様のために、どれだけ自分のいのちを注ぎ出そうとしてきたでしょうか。
 主イエス様は、すでにすべてを注ぎ出してくださいました。
 ぶどうの実が、人の足によって踏みつけられて、押しつぶされて、最後の一滴まで注ぎ出されて、かぐわしいぶどう酒が作られるように。

 

 

 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。
 「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです
。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」 マタイ26:27-29

 

 

 私たちは、主の御苦しみの杯に、今日もあずかります。それは、その御苦しみゆえに、真に麗しく、芳醇な、尊い主の香りです。
 そして私たちは、ただ主の御苦しみの「実である杯」だけではなく、その避けて通ることのできないプロセスである「主の御苦しみ」にも、あずかるのです。
 それは、決して「ただ辛いこと」ではなく、主に喜ばれる「香ばしいかおり(エペソ5:2)」に至るのです。

 

 

 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 Ⅰペテロ2:19-21

 

 

 この尊い主の御苦しみの一端に、ちりあくたに過ぎない私でさえも、あずかることが許されるとは、何という特権でしょうか。
 主は私たちの、その注ぎ出された愛を、すべてご存じでいらっしゃいます。
 主は私たちのその苦しみをご覧になり、その心の尊さを理解してくださるので、天の御国で私たちと再び会うその日までは、決してひとりでそれを飲むことはないと約束してくださいました。

 

 

 

 人の心のすべてをご存じでいらっしゃるこの愛なる主のために、私たちも注ぎ出しましょう。
 神の御国で迎える主イエス様との婚礼の宴で、「ぶどう酒がありません。(ヨハネ2:3)」などと言わなければならないようなことがありませんように。
 そして、祝宴の日には主イエス様とともに、溢れるばかりの喜びの杯にあずかりましょう。