いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神は「やみ」からお始めになる

 



 「きのうの試合終了のホイッスルは、新たなチャレンジのスタート。」

 これは、サッカーワールドカップ出場を決めた日本代表チームの岡田武史監督が残された名言です。私は、この試合を通して、実に多くのことを考えさせられました。

 私は主イエス様によって救われたとき、「すべてが完成した」と感じ、単純に喜び踊りました。
 けれども、永遠の滅びからの救いは、試合の完了ではなく、まさに新たなチャレンジへのスタートに他なりませんでした。

 

 

 「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。」 エレミヤ16:21

 

 

 私たちは、イエス・キリストによる罪の贖いを信じ受け入れたとき、御霊を与えられ、「イエス・キリストこそ、まことの神である」ことを、はっきりと知りました。

 しかし、私たちは地上では依然として、以前と何ら変わらない「死ぬべきからだ(ローマ8:11)」をもっています。そして、地上では今も、「この世を支配する者(ヨハネ14:30)」であるサタンが働いています。それゆえ、私たちはしばしば倒されます。

 

 

 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 Ⅱコリント4:8-9

 

 

 しかし、私たちが倒されるのは、滅びるためではなく、再び、立ち上がるためです。
 私たちは、自分の力によって闘い、倒されますが、再び、主の御力によって立ち上がらされるのです。

 そして、「今度こそ」、キリスト・イエスを「神」という名だけでなく、「わたしの名が主である」ことを知るようになります。

 

 

 永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 ヨハネ17:3

 

 

 私たちは、いのちの日の限り、絶えず、知り続けなければなりません。
 さらに知り続けることができるようにと、主は私たちを招いてくださっています。

 

 

 初めに、神が天と地を創造した。
 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。
 こうして夕があり、朝があった。第一日。 創世記1:1-5

 

 

 創世記の第11節(上記1行目)と、2節(上記2行目)の間には、とても長い時間的な隔たりがあるという学びを聞いたことがあります。
 確かに、2節には「やみ」があります。「やみ」は、神が意図的に創造されたものではないと私は信じます。
 1節と2節の間に、何が起こったのか、どのような歴史があったかについては、まだ充分に吟味できていないので、ここで触れようとは思いません。

 しかし、確かなことは、神である主は、「このやみから、再び、始められた」ということではないでしょうか。
 主は、この「やみ」の世に、「初めに」、「光」を与えてくださいました。この「光」は、四日目に造られた太陽や月とは、別のものです。

 

 

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 ヨハネ1:1-5

 

 

 この「光」とは、紛れもなく、主イエス様です。
 私たちは、一日は「朝から始まる」ものだと思っていますが、聖書によれば、「こうして夕があり、朝があった。(創世記1:5813192331)」であり、常に、「やみ」から始まっています。

 しかし、神は、私たちに「光」という力をお与えくださいました。「やみ」は決して、「光」に打つ勝つことはありません。

 

 

 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 創世記2:1-3

 

 

 感謝すべきことに、第7日目に、神はみわざを完成してくださいました。この第7日目には、もはや「夕」はなく、「やみ」はありません。
 喜びましょう。私たちは、天に帰ったとき、本当にこの第7日目の祝福にあずかることができるのです。

 そのために、私たちはいつも、地上にあっては、「やみ」から始めるのです。「キリストの死」から始めるのです。「十字架」から始めるのです。
 それらはすべて、「よみがえりのいのち」にあずかるためです。「よみがえりのいのち」が、すべての人々に及ぶためです。

 

 「やみ」を見出しても、驚かないようにしましょう。「やみ」を見て、失望しないようにしましょう。
 神は「やみ」から始めてくださったのです。主イエス様は、「十字架の死」から始めてくださったのです。
 神である主は、私たちに「光」を、よみがえりの「イエスのいのち」を与えてくださったのです。

 

 

 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 ヨハネ11:25

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。 Ⅱコリント4:10-12