ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」
それからイエスは、弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。
「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったのです。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。」 ルカ10:21-24
「いのちのいずみ日記ページ2」は、十字架によって平和を実現された、私たちの主イエス・キリストにあって、「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされた(Ⅰコリント12:13)」愛する聖徒たちに、ささげたいと思います。
イエス・キリストをご自分の救い主として、まだ信じていらっしゃらない方には、多くの部分は理解できない日記になることと思いますが、その点については、ご容赦いただきたいと思います。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 Ⅰコリント2:14
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」 ルカ11:9-13
さて、愛する聖徒たちは、今が終わりの時代であることを、ひしひしと感じておられることと思います。主のご来臨の間近き今、私たちの現状はどうでしょうか。
終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。
そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。 Ⅱテモテ3:1-5
私たちの周りには、まだ救われていない多くの飢え渇いた人々が与えられています。
けれども、私は自分の働きに、本当に力がないことを、日々味わわされています。
主の働きにあずかる前に、主は徹底的に私たちに「自分の無力」を教えなければなりません。
「いのちのいずみ日記ページ1」は、私が「自分の無力」を教えられるまでのプロセスでした。
けれども、自分の無力を知ることは、働きのほんの入り口に過ぎませんでした。
さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない。 エレミヤ5:21
主は、「自分の無力」を悟った私の目を開いてくださいました。
私は2001年に救われ、「御霊によって目が見える者」とされていたにも関わらず、8年もの間、うわべしか見ていなかったのです。
「霊的な目」を開かれて、見え始めた現実は、以前見えていた現実よりも、悲惨で深刻な状態でした。
主の民の集まりにおいて、いったいどこに主の主権があるのか、どこに御霊の一致があるのか、憂うばかりの現実を目の当たりにさせられたとき、ただただ主の御前に泣かざるを得ませんでした。
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。 エペソ4:3
私は主に申し上げました。
「主よ。私は、御霊の一致とは、私たちが作り出すものではなく、すでに与えられているものであり、保つものだと学んできました。けれども、主よ、ご覧ください。私たちの集まりには、一致がないのです。」
しかし、主は私に語られました。「あなたは何を見ているのか。」
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 Ⅱコリント4:18
「あなたが今、見ているものは、やがて過ぎ去っていく一時的なものに過ぎないのではないか。あなたはそれを『事実』と呼ぶのか。あなたはそれを『真実』として受け入れるのか。」
神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 エペソ1:22-23
「あなたがたは、『キリストのからだ』ではないのか。『キリストのからだ』は、手が欠けているだろうか。足はまだついていないのだろうか。」
「主よ。おっしゃる通りです。『キリストのからだ』は、初めからひとつであり、徐々にパーツが集められていくものではなく、今すでに完全です。でも、主よ。私たちの現状をご覧ください。私たちは、あまりにも成長していないのです。」
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。
御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。 ヨハネ16:13-15
御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。 Ⅰコリント2:15
「あなたがたには、わたしの救いを受け入れたその日から、完全な御霊が与えられている。御霊は初めから完全であり、成長や変化はなく、あなたがたに与えられている御霊は、まったく同一のひとつの御霊である。
あなたはいったい何を見ているのか。これらの『目には見えない霊的事実』は、事実として受け入れるのに困難なことだろうか。」
目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。 黙示録3:2-3
終わりの時代にあって、私たちは、目をさまして、ただこの「神の事実」、「霊的事実」をしっかり見続けなければなりません。
もし、霊的事実から目を離すならば、そこには暗闇しかありません。
確かに、私たちは「地上にいる間」は、主ご自身を完全に知ることはできません。私たちに見えること、知らされていることは、常に一部分です。
それゆえ、いつも主の御前に、柔和な謙虚さを持って、今、教えられていることを互いに分かち合い、励まし合うことができれば幸いに思い、この「いのちのいずみ日記ページ2」を始めます。
生きておられる主ご自身が、互いの祈りを通して、私たちの霊に働いてくださり、さらに多くの知恵と悟りを与えてくださいますように。そして、和解の実現のために自らいのちをお捨てくださった、主の御苦しみの実を勝ち取ることができますように。
愛は決して絶えることがありません。
預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。 Ⅰコリント13:8-13