いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 Ⅰテサロニケ5:16-18
子供の頃から、なぜ人間はこんな腐り果てた世界で生きていかなければならないのだろうと悩んできた私は、よく図書館で「何のために生きるのか」、「生きる目的」といった類の本を探しては、読みあさってきました。
けれどそれらは、くだらない処世術ばかりで、何の助けにもなりませんでした。
しかし、そのような暗闇の中で半生を終えてしまった後に、私はキリスト・イエスに出会い、「人間は神に感謝するために生きている(生かされている)」ことを知ることができました。
人生の目的を知らないまま生きることの空しさを痛感していた私は、「神に感謝する」という人生の目的を教えてくださった神に心から感謝するとともに、本当に喜びました。
そして、ある学校では、祈りの時間があり、神に感謝をささげることを教えていたそうですが、時代の流れにしたがって、それを止めたところ、またたく間に学校には悪がはびこるようになり、荒廃して行った、という話をお聞きしました。
「神に感謝するために生かされている人間」が、その生存目的を果たさないことは、私たちの造り主である神への冒涜であるばかりではなく、その生命体そのものが自らを破壊してしまう行為であることを知り、恐れを覚えました。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。 箴言8:36
かく言う私も、そのメッセージをお聞きして、改めて、自分自身いかに神に対する感謝の足りない者であるかを教えられ、悔い改めさせられました。
そして、ふと考えました。
エデンの園にいたアダムは、神に感謝していただろうか…。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 創世記2:16-17
アダムは食糧にこと欠くことがなく、思いのままに食べることが許されていました。
けれども、これ以外の世界を知らないアダムにとって、食べ物があることは「当たり前」でしかなかったのではないでしょうか。
人間は、「当たり前のこと」、「当然の権利」と思っていることに、感謝することはありません。
「感謝」とは、「当たり前と思っていたことが、実は当たり前のことではなかった」という重大な事実に目を開かれたとき、初めて生じるものなのではないでしょうか。
私は長らく、人類初の罪とは、「神に禁じられていた善悪の知識の木の実を、取って食べたこと」であり、それはすなわち、「神様のことばを信じなかったこと」だと思っていました。
けれども、今、私は思っています。
人類最初の罪とは、「神に感謝しなかったこと」だったのではないかと。
アダムは「神に感謝していなかった」からこそ、食べる必要のなかった木の実を食べてしまったのではないかと。
聖書には、アダムが神に感謝していたかどうかは、あえて書かれていませんから、神が明らかにされなかったことについて、私は論じる立場にはありません。
けれども、私は今、「神に感謝しないこと」こそ、人類の最も根源的な罪であり、かつ最大の罪だと、御霊によって教えられています。
神に感謝しながら犯せる罪はなく、神に感謝しながら失望することもできません。
万物の創造主なる神への感謝こそ、私たちを幸せに導く唯一の道です。
さて、与えられていた恵みを軽んじたアダムは、禁断の実を食べ、恵みに満ちたエデンを追い出されることになりました。
また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」 創世記3:17-19
そこは、額に汗しなければ、食べ物を獲得できない厳しいところでした。
そして、約束どおり、いつか「必ず死ぬ(創世記2:17)」ところでした。
しかし、愛なる神は、彼らをあわれんでくださり、彼らの恥をおおうため、「皮の衣」を作り、着せてくださいました。
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。 創世記3:21
彼らの罪による恥をおおうためには、罪のない動物がほふられなければなりませんでした。
アダムが名前をつけ、親しく呼びかけていた動物は、アダムの罪ゆえに、殺されました。
このときアダムは初めて、自分の犯した罪の大きさを知り、身代わりとなった動物に心から詫び、こんな罪人のために、ここまであわれみを示してくださった神に、心底から感謝することを教えられたのではないでしょうか。
ほふられた動物、それはキリストの型です。
私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 Ⅰコリント5:7
エデンを追われたアダムは、荒れ果てた地を開墾しなければならないという過酷な現実に叩き込まれることになりました。
アダムは悲嘆に暮れている暇もなく、食べるために働き続けたことでしょう。
そんなアダムは、一日の労苦を終えて眠りにつく前、毎夜、神様が作ってくださった「皮の衣」を、愛おしく、また懐かしく、大切に手にとって眺めては、神の愛を思い出し、神の愛によって慰められ、神に感謝をささげるように変えられていったのではないでしょうか。
アダムの子孫である今日の私たちにも、やはり過酷な人生の現実があり、避けて通ることのできない死があります。
そんな中で、「神は何もしてくれない。いったい神に何を感謝すれば良いのか。」と、感じることもあるかも知れません。神の愛を具体的に経験したクリスチャンでさえ、そのように思ってしまうときがあるのですから、ノンクリスチャンであれば、なおさらでしょう。
しかし、アダムは、一度、エデンから外に追い出される必要があったのです。
希望のない暗闇がどのような世界であるかを身をもって知ることによって、初めて光の素晴らしさ、美しさを知ることができるのです。
私たちクリスチャンは、「愛なる神は最善以外のことを決してなさることができない」ことを知っています。
私たちの近視眼には最善には見えないことも、遠大なる神のご計画の中では、すべて「プロセスとして最善」なのです。
この暗闇というプロセスを経なければ、決して味わうことのできない喜びと感動が確かにあるのです。
苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 詩篇119:71
昨日、ブログの下書きを終えて、うたた寝していた私に、主は語りかけてくださいました。
「ありがとうと言わなければ、意味がない。」
私たちは日々、多くの経験をしますが、すべては、神の御手のうちに起きています。
サタンは私たちを罪へ導くために多くのたくらみをしますが、神の許しがなければ何もすることができません。
神は、サタンのたくらみを、ある時はあえて許されますが、その目的は、その出来事によって、私たちがさらに自分の至らなさを教えられ、より神の偉大さと素晴らしさを知るためです。
私たちがそのことに気付かないならば、ただの苦しみで終わってしまいます。
それは、何と悲惨なことでしょう。
しかし、神は常に愛です。最善をなしてくださるお方です。
どのように辛いことも、最後は必ず「ありがとう」に変えることのできるお方です。
主イエス様を、死者の中から、よみがえらせてくださったお方なのですから。
この神は、「死」という動かしがたい絶望的な現実でさえも、くつがえすことのおできになる全能者なのですから。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」 ローマ10:9-11
私たち自身には、何の望みもありませんが、ただこの神に望みがあるのです。
神に感謝しましょう。
昨日よりももっと、神に感謝しましょう。
それが私たちの生きる目的であり、より幸いな人生へと導かれる唯一の道なのですから。
父なる神様。私たちに感謝する心をお与えくださり、真心から感謝します。
私たちがあなたに近づき、あなたに感謝することができるようにと、私たちの罪をおおうために、苦しむことをもいとわれず、自らいのちをお捨てくださった主イエス様の尊い犠牲を覚えて、心から感謝します。
私たちはあなたから計り知れない恵みをいただきながら、それを忘れ、足りないことばかりを見て、不平や不満を漏らしてしまうような目の見えない者です。
どうかこんな愚かな私たちをあわれんで、私たちの心の目を開き、あなたの与えてくださっているひとつひとつの恩寵を悟ることができるように助け、導いてください。
日々、あなたに感謝し、もっとあなたの素晴らしさを私たちが知ることができますように。
まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行なわれる方です。あなただけが神です。
主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。 詩篇86:10-13