いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

愚直に神の山に登れ

 

 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 ローマ12:2

 昨年10月、私は御霊に導かれるまま、中学生以上の学生を対象とした福音伝道の働きの場である「学生集会」に加えられました。

 しかし、悲しいことにそれは、私の想像していたものとは、かなり異質なものでした。

 それは一見の傍観者だからこそ、感じ取ることが許されたことでした。

 そこは、「神のきよさ」よりも、「この世で良いと言われていること」「この世で価値のあること」「この世の知恵」で満ちているように思われました。

 まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

 マタイ23:26

 それから私は、祈り始めました。私たちの心が、きよめられますように。

 学生集会が、きよめられますように。日曜学校が、きよめられますように。私たちの集会が、きよめられますように。

 クリスチャンホームが、きよめられますように。私たちの家庭が、きよめられますように。

 数ヶ月たつと、私の目の前に、私たちの集会内に生じた「小さな問題」が、次々と突きつけられるようになりました。

 それらは総じて、「個人的な感情の行き違い」と呼べるような問題でした。ある人が「良いと思って善意で始めた行為」が、他の人の心を傷つける結果となっているのです。

 そうは言っても、みなクリスチャンですから、互いに「赦そう」と努力し、直接対決に至るケースは稀です。

 けれども、その感情は、根本的に解決されていないので、様々な場面で顔を出してきます。私はそれらを見せられるたび、何とか丸く収めよう、なだめすかして鎮めようと努力してきました。

 ところが、まるでもぐら叩きのように、叩いても、叩いても、次々と新しい問題が顔を出すのです。

 そして、ようやく私は気づきました。

 あの祈りが、神である主に聞かれたのだと。

 その問題は、実は新しいものではなく、ずっと以前から私たちの集会に存在していたものでした。

 けれども、私たちはずっと、「臭いものにフタ」をしてきたのです。

 しかし、いくら臭いものにフタをしたところで、臭いものはなくなりません。

 フタをはずし続けていたのは、神である主ご自身でした。

 臭いものは、まず明るみに出すことになしに、処分して、きよくすることはできないのだと悟りました。

 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。 Ⅰコリント4:5

 神である主が、私たちをきよめようとしておられる。このきよめの働きを始められたのは、神ご自身である。

 そう悟ったとき、祈りを確かに聞いておられる神に感謝するとともに、もう足りない自分の力であくせくする必要はないことに、心から安堵しました。

 それどころか、私には、どのように解決すればよいのか到底考えも及ばない、この大いなる「きよめの働き」を、神ご自身が偉大なる御力をもって進めて行かれるそのプロセスを、私もリアルタイムで見ることが許されているという驚くべき特権に、私は心躍らされています。

 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。

 そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。 ハガイ1:7-8

 そして私は、学生集会に加えられて間もなく与えられたハガイ書に、再び戻ってきました。

 「山に登れ。」

 モーセが焼け尽きることのない「燃える柴」を見たのは、神の山ホレブでした。モーセが神から「十戒」を授かったのは、シナイ山でした。

 「山に登る」とは、神の住んでおられるところに出向き、神の御声を聞くこと、すなわち、祈ることに他なりません。

 「木を運べ。」

 主イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。ヨハネ15:1」と言われました。

 「木を運ぶ」とは、神からいただいた主イエス様とそのみことばを運ぶことでした。

 「そして宮を建てよ」とは、すなわち、神の御住まいである私たちの集会、目には見えない霊的な集会を、建て上げよということでした。

 私たちは、まず山に登らなければ、木を得ることはできません。しかし、忠実に山に登りさえすれば、感謝すべきことに、必ず木が備えられているのです。

 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。 マタイ14:23

 思い起こせば、主イエス様は、地上におられたとき、実によく祈られました。朝早くから、時には夜を徹して、ひとり離れたところで、祈り続けられました。

 地上における主イエス様の奇蹟は、ただ単に「神の子だから当然できたこと」ではなく、この隠れた長い祈りの賜物であったことを教えられました。

 すべての良い働きは、自分の知恵によるのではなく、ひたすら愚直に、父なる神様のみもとに行き、その御声に耳を傾ける時間を、できる限り長く持つことから始まるのです。

 日々、忍耐強く、神の山に登り続ける他に、何の解決策もないことを、私はようやく確信しました。

 けれども、私は早起きは苦手ですし、長く御声に耳を澄ましていると睡魔が襲ってくることも、しばしばです。

 しかし、父なる神様との交わりの時間をたっぷり持つことは、何よりも神ご自身が望んでおられることなのです。それゆえ、私は父なる神様に、それらの妨げからもお守りくださいと、祈ります。

 すると、主は喜んで、それを与えてくださいます。

 早起きも随分、楽になりました。すっきりと目覚めたときに、私はいつも「初めに神が愛された」ことを思い起こします。

 ゆっくり祈りの時間を取り、教えていただきたいことを父なる神様に申し上げ、主の御声を聞くことに心を合わせていくと、主は多くの知恵を与えてくださいます。

 私はとても覚えきれないので、祈りの途中で、「ちょっと、メモを取らせてください」とお断りして、日記帳に書き留めては、また祈ります。

 神様が私にお与えになりたかったものは、こういうものだったのだと、ようやく理解できるようになりました。

 

 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

 コロサイ2:3

 主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。 Ⅱテモテ2:7

 かつて私が神に求めていたものは、とても的外れなものでした。

 ちょうど、幼い子どもがお父さんに、「お菓子が食べたいから、千円ちょうだい」と、「子どもにとっての大金」をおねだりしているようなものでした。

 お菓子は、私自身を満足させるためのものでした。私がおいしそうにお菓子を食べていれば、神様を知らない人たちも、神様に近づきたいと思うようになるのではないかと考えていました。

 しかし今、時間にとらわれずに、ほんの少し、父なる神様の御前に長くとどまることを覚えた私は、神である主から、一億円をいただいてしまったかのような恐れを感じています。

 頼んだつもりのない一億円もの大金をポンと渡されたら、いったい人はどうするでしょう。喜ぶどころか、当惑するのではないでしょうか。

 「こ、これは、何のために、使えば良いのでしょうか。私に預けられても、とても管理できないし、夜も安心して眠れません。こんなこと、やめてください…。」

 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。マタイ6:19-20

 けれど、私がいただいた一億円は、地上の財産ではないので、盗まれる心配はありません。

 ただ、神のみこころにそって、私自身のためにではなく、他の人々のために、思慮深く用いなければなりません。

 しかし、悩む必要はありません。その使い道もまた、神である主に尋ねれば、必ず教えてくださいます。

 父なる神様。あなたは私に、あなたとの時間にとらわれない、ゆったりとした交わりを通して、豊かな知恵を注いでくださることを教えてくださいました。心から感謝いたします。

 あなたは、良いわざに励むようにと、聖書の中で繰り返し教えてくださいましたが、私たちには「真に良いわざ」を見極める力がありません。どうか、私たちの心の目を開いて、真にすぐれたものと、なくてもよいものとを、見分ける知恵と選び取る力をお与えください。

 あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。

 またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。 ピリピ1:9-11