心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。マタイ5:8
ある姉妹(女性クリスチャン)が手術のため入院されました。
私自身の体調が回復したら、見舞いに行きたいと祈り、ようやく一週間後に手作りのお菓子を用意して、病院を訪問することができました。
ところが、ナースステーションで病室を尋ねると、その日の朝、姉妹はすでに退院されたとのこと。
9日間の入院だと言っていたのに…、主に祈っていたのに…、何でこんなことになってしまったんだろう…。
治りかけていた微熱がぶり返してきたような気がしました。
しばらくして、はっと我に返りました。
姉妹が予定よりも早く退院されたということは、主が術後の経過を守られ、すみやかに癒してくださったということに他なりませんでした。
私自身も、その回復を祈っていたのに、その驚くべき癒しを主に感謝することもなく、ただ自分が「無駄なこと」をしてしまったことばかり悔やんでいました。
私は本当に自己中心的で、失敗に弱い者だと、あからさまにされ、主の御前に、悔い改めました。
人は自分自身のことを知っているようで、まるでわかっていません。
それは、自分の欠点を見たくないからなのだと思います。
本当の自分の姿など、誰も知りたくはないのです。
それを知ることは、耐え難く恐ろしいことです。
しかし主は、このようにおぞましい私の姿を、すべてご存知にも関わらず、私を見捨てず、私を愛して、神の子どもとしてくださいました。
それゆえ私は、その恐ろしい自分の姿を直視する勇気を与えられます。
私は小さな恐れを抱きつつ、「主よ、私の心を探り、私がみこころにしたがって、正しく悔い改めることができるように導いてください。そして、日々、主の聖さに似せられていきますように。」と、祈り続けます。
主は小さな祈りに確実に応えて、落胆するような現実を次々と突きつけてくださいます。
その度に、私は恐れ、退きたくなる思いに捕らわれます。
初めから、お見舞いになんか行かなければ良かった、というように。
そんな時、よくマザー・テレサの言葉を思い出します。
「私たちは成功するように召されているのではなく、ただ忠実であるようにと召されているのです。」
彼女も、数え切れないほどの失望を味わわされながら、前進し続けてこられたお方だったのだと、改めて胸が熱くなりました。
主よ。あなたは聖なるお方であられ、私たちを愛してくださいました。
それゆえ、主イエス様の十字架の贖いによって、罪人であった私たちをきよめて、私たちのうちにお住まいになるという驚くべき恵みを与えてくださいました。
どうか私の心を、あなたが喜びをもってお住まいになることができるように、忍耐を持って、日々、きよめ続けてくださいますように。
肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。
また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。
聖くなければ、だれも主を見ることができません。ヘブル12:10-14