知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。Ⅰコリント8:1
このみことばは、一読すれば納得でき、特に首をかしげるようなものではありません。
しかし、なぜ「知識」と「愛」が、あたかも対極にあるかのように対比されているのでしょう。
私たちは知識を愛します。知識は生活を豊かにし、人々の尊敬を集め、幸せをもたらすものと考えます。
しかし、確かに知識は、人を高ぶらせる危険性を常にはらんでいます。
聖書を読みながら、「知識」という言葉には、「権利」という言葉がつきまとっていることに気が付きました。
初代教会の信者の中には、多くの知識人がいたようです。彼らはその知識を用いて、「自分の権利」を主張しました。その結果、知識のない信者たちは、おざなりにされてしまいました。
ふと、ある専心伝道者の妻として生涯を全うされた姉妹(女性クリスチャン)のことを思い出し、久しぶりにご夫妻の追悼集を開いてみました。
ちなみに、私は生前のご夫妻との親交はなく、仕事を介して彼らの息子さんと出会い、この追悼集を贈っていただきました。
彼の母、つまるところその専心伝道者の妻は、大変裕福なクリスチャン家庭に生まれました。その広いお屋敷内には、自宅の他、学者である父の研究所、教会の三つの建物がありました。
しかし、彼女は、そこに通う貧しい若者、27歳で東京大学講師の座を捨てて、専心伝道者として立たれて3年の兄弟(男性クリスチャン)の助け手として、大学卒業後間もなくご結婚されました。
専心伝道者とは、文字通り、キリストを宣べ伝えることに専念した者で、定期収入はありません。彼らは、ただ信仰と、父なる神様の御恵みによって、養われています。
何不自由ない暮らしをしてきた彼女が、なぜその道を選び、極貧生活に耐えられたのか私にはまったく不可解です。
それを理解するには、ただ信仰によって、という言葉しかありません。
彼女には7人もの子どもが与えられ、貧しい中から、みな大学・短大まで卒業させたというのですから驚きです。子どもが大好きで、幼子を抱えながらも、キリストを宣べ伝える幼稚園を開いていた時期もありました。
しかし、彼女は決して歯を食いしばって生き抜いた人ではありませんでした。
人々の記憶に留められた彼女は、いつもにこにこ、愛と、感謝と、賛美に満ち溢れた人でした。貧しい中でも、知恵を用いて、工夫を重ね、マイナスをプラスに転じることの上手な人でした。
食卓には、彼女のお皿だけありませんでした。子どもたちが食べ残すであろうものを拾っていただく、それが彼女の生き方でした。
追悼集を編集した彼は、母について、こう記しました。
どう表現したらよいか、とにかく与えるだけの人だった。見返りを求めて与える人は数限りないが、母のように「与えること」が終始一貫身に付いた人はなかなかいないと思う。だから「損した」という言葉も聞いたことがなかった。
70歳の頃、彼女はこう書きました。
私はジャガ芋の親芋が好きです。
戦中よくジャガ芋を植えましたが、時には一個の親芋から、鬼ザル一杯もの立派な新芋が取れました。
親芋はどうなったでしょう。腐ってグシャグシャになって、つぶれています。手で触るのも気持ちが悪く、土の中にふみつぶして埋めてしまいます。
私はそうなりたいです。
「知識」の対極に置かれた「愛」とは、「権利」の対極にあるものでした。
いつも自分のことばかりに関心を持ち、自分の利益に一喜一憂している自分の姿を思い知らされました。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。イザヤ53:11
主イエス様は、その御苦しみを我慢されたのではなく、満足されました。
それは、その苦しみが、愛する者たちの益となり、愛する者たちの救いとなるからでした。
主は、ご自分の苦しみに目を留めておられたのではなく、愛する者たちの幸せに目を留めておられました。それゆえ、苦しみにさえ、満足してくださいました。
真の知識とは、自分の権利を主張するためではなく、多くの人を義とするために用いるものでした。
父なる神様、どうかこの主イエス様の御思いを、私自身の思いとして、私のうちに新しく形造ってください。真の知識によって、この身を用いていただくことを私の喜び、満足としてくださいますように。
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。Ⅰヨハネ3:16