人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ヤコブ1:20
「人を動かす原動力って何だと思いますか。」
「そうねぇ。誰かを喜ばせたいという善意?」
「僕は怒りだと思うんですよ。」
随分以前のことですが、こんな会話をしたことを思い出します。
確かに、怒りが動機となった、重大な犯罪事件は後を絶ちません。
しかし、もう一歩踏み込んで考えると、その「怒り」の原動力は、「正義感」なのではないかと気付きました。
「自分を無視する社会に復讐したかった」という理不尽な犯罪者の言い分も、彼にとっては正義感であり、彼は「彼の正義感」を実現したに過ぎないのではないかと。
「正義感」というのは、実に曲者です。
人が何がしかの「正義感」を抱き、それに固執してしまうと、人はその「正義感」によって拘束され、支配されてしまいます。
その人には、その「正義感」の達成が義務付けられ、多くの労力を投じなければならなくなりますが、「正義感」は人によって多種多様であるため、それは決して完成を見ることなく、人生を終えなければならなくなります。
これを「わざわい」と呼ばずに何と呼べば良いのでしょう。
私の人生の大半も、この悪魔のサイクルの中で、消費されてしまいました。
私が私の人生を浪費しただけなら自業自得ですが、この「正義感」ゆえに、私は多くの人を傷つけてしまいました。
「正義感」と言えば聞こえの良いものですが、人の持つ「正義感」とは結局、「独善」に過ぎないのではないかと、ようやく気付きました。
私の持つ「正義感」においては、私自身は常に「義」です。人は自分自身を「義」とするために、私の「正義感」を自分勝手に造り出してしまうのかも知れません。
そして、さらに教えられました。「正義感」の原動力は、「恐れ」なのだと。
人はみな自分がいかに罪深い性質を持っているかを、ひそかに自覚しています。
こんな自分は神様から「義」と認められないのではないか、という「恐れ」から、自分が「義」と認められるような自分勝手な「正義感」を考え出し、それを傲慢にも他者に押し付けてしまっているのではないでしょうか。
私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。イザヤ64:6
聖書は言います。「義人はいない。ひとりもいない。ローマ3:10」
私たちは恐れている通り、神の御前にさばきを受けなければならない罪人です。この絶望的な事実の前に、いったい私たちは、どうすれば良いのでしょうか。
ここに福音があります。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。Ⅱコリント5:21
主イエス様の贖いを信じる者は、神の御前に義と認められます。
義と認められた者は、もう自力で自分の正義感を実現するむなしい労苦、悪魔のサイクルから完全に解放されます。
義を行なわれるのは神ご自身です。私たちはこの主に神の義を実現していただくことを期待し、祈り、そのときどきに示される主の導きに従って、神のみわざに忠実にあずかれば良いのです。
主イエス様に救い出された者の歩みは、何と軽やかで幸いでしょう。
信じた私たちは安息にはいるのです。ヘブル4:3