私たちクリスチャンは、地上のいのちを果たし終えれば、天に帰り、主イエス様の御顔を仰ぎ見ることができ、永遠に主とともに過ごすことが約束されています。
そこでは、喜びと賛美が永遠に尽きることがありません。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。黙示録21:3-4
それゆえ、私たちは地上に執着することがありません。
天では、私たちクリスチャンは、ひとりの花嫁として、花婿なる主イエス様に迎えられます。地上の花嫁は、花婿が迎えに来てくださることを、ひたすら待ち望んでいます。
それでは、なぜ花婿は、愛する花嫁を、苦しみのある地上に置いたままにされるのでしょうか。
そのとき、天から地上を眺める視点を与えられました。
私は天にはすべての良いものがあると思っていましたが、地上には、地上でしか味わえない幸いがあるのではないか、と。
ある伝道者に尋ねたところ、思いつくまま、いくつかのことを挙げてくださいました。
「信仰」「苦しみ」「兄弟姉妹(クリスチャン)に仕えること」「キリストにならうこと」「天に宝を積むこと」「旅行の準備の楽しみ」。
天では、主を直接、仰ぎ見ることが可能となるため、見えないものを信じる「信仰」は必要なくなります。「信仰」は、地上でこそ、働かせる価値があるのだということを改めて教えられました。
そして、「苦しみ」。苦しみは、誰にとっても、できれば避けて通りたい、喜ばしくないものです。
けれども、クリスチャンは、地上でしか、苦しむことができません。聖書を読むならば、苦しみとは、私たちを神の聖さにあずからせるために与えられる主の賜物です。
神は愛です。神の動機はいつも愛です。意味のない苦しみなどありません。
苦しみは、誰にでも与えられるものではありません。ただ主がお選びになった者だけがいただくことのできる尊い賜物です。
苦しみの中で、主が私に教えようとしてくださっている「秘密」について思い巡らし、それを味わうことは無上の喜びです。
主イエス様も、私のために地上ですべての苦しみを味わい尽くしてくださいました。
この麗しい花婿の味わわれたものを、私も味わうことが許されるとは、何という特権でしょう。父なる神様は、御子と等しく、私をも取り扱ってくださるのです。
今はまだ、私には小さな苦しみしか与えられていませんが、やがて父なる神様が私を信頼して、大きな苦しみをお与えくださったときも、いつもその喜びの中に留まり続けることができますように。
イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。ヘブル13:12- 13