いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

今日一日、ただ忠実であること

 

 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。申命記11:22-23

 この世の価値観と、聖書の神の価値観は、ほとんど180度異なっていることを何度も教えられます。

 この世では、結果がすべてであり、成果は数量によって、目で確認されなければなりません。いかに最少投資、最短距離で、最大の効果を得られたかが、賞賛の的となります。

 私は主イエス様の十字架によって救われた者として、家族、親族、友人、知人たちも、この素晴らしい福音によって救われて欲しいと切に願っています。

 しかし、この7年間、私個人に与えられた祈りの対象者の一人からも、主イエス様への信仰告白を私の耳で聞くことはできていません。

 この世の判断で評価するなら、私の業績評価はゼロです。主は私に実に多くの教育的投資をしてくださっていることを考え合わせるならば、まったくの赤字採算です。

 しかし、神は、私の業績に関心を示されるお方ではありませんでした。

 すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。ローマ11:36

 業績は、ただ神によるからです。人の目に業績ゼロでも、人の目に数千人の信仰告白者が起こされたとしても、それは人の徳によるのではなく、ただ神ご自身がご自分のみわざを見るだけです。

 神の目は、そのしもべたちが、どのような心でそれを行なったか、という一点に注がれています。

 私のなすべき分は、主の御前に、ただ忠実であること、それだけでした。それは大きな福音でした。

 私は物事の結果責任を問われることも、それを負う必要もありません。

 この地上で、何一つ、人の目に良いものを残せなかったとしても、私は責められることがありません。

 ただ今日一日、静まって主の御声を聞き、主が私にお与えくださった小さな働きを、忠実になしていくこと、それだけに心を砕いて歩めばよいのです。

 私は、生きていないかもしれない十年後のことを思い煩う必要がないのはもちろん、明日のことさえ心配する必要はありません。明日の信仰を今日いただこうというのは、貪欲というものでしょう。

 また、過ぎ去った昨日のことを、悔やみ続ける必要もありません。それは、主の御前に告白され、悔い改め、主イエス様の尊い御血によって洗い清められたからです。

 今日一日、どのようなことが起こるとも、主イエス様の愛のうちにとどまり続け、ひたすら主に忠実に歩む力を小さなしもべにお与えください。

 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。黙示録2:10