私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。ヨブ記9:21
ヨブは、神の民ではありませんでしたが、常に神を恐れ、悪から遠ざかっていました。
しかし、そんな潔白で正しいヨブに、次々と災難が降りかかりました。
10人の子どもたちは天災で死に、多くのしもべたちや財産も奪われました。あまつさえ、ヨブ自身も、全身腫瘍に覆われて、土器のかけらで身をかかなければならないほどの病に襲われました。
冒頭のみことばは、その極限の苦しみの中で、ヨブの漏らした言葉でした。
人生とは、実に苦しみと困難に満ちています。
さて、人生最大の不幸とは、何でしょう。家族を失うことでしょうか。財産が奪われることでしょうか。激痛を伴う不治の病に見舞われることでしょうか。
極限の苦しみの渦中では、生きていること自体が、最大の不幸と感じられるでしょう。死んだら楽になれるという思いに捕らわれ、自殺を考えるかも知れません。
けれども、もし地上のいのちの日に、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ受け入れなければ、「永遠の火の刑罰」に入れられるのです。そこは、もうそれ以上、死ぬこともできない極限の苦しみが永遠に続くところです。
「私には自分自身がわからない。」
これこそが、人生最大の不幸だと、私は今、教えられています。
私は、神様のことは、偉大すぎて到底理解し得ないにしても、自分自身のことくらい自分で理解できると思い上がっていました。
しかし、日々、主から、私のうちにある自分で認めたくないような罪の性質や、がっかりさせられるほどの力のなさを、引きずり出され、見せられて、失望に打ちひしがれています。
いったい、自分自身のことを自分で知り得ないということほどの救い難い絶望があるでしょうか。
7年前、主と出会う以前、私はいったい自分が何を必要としているのかさえわかりませんでした。
何かが欠けていて、何かを必要としているのだけれど、それが何かわからないのです。
その不足感を補うために、多くのことにチャレンジしましたが、その飢え渇きはいやされることはありませんでした。
福音集会に導かれ、聖書のメッセージを何度か聞くうちに、私は「変わらない真理」が欲しかったのだと気付きました。それまで私が真理だと信じてきた土台は、次々と打ち砕かれてきたからです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 ヨハネ14:6
そして、私は「変らない真理」を与えられました。
けれど、クリスチャンとなってからも、結局、「私には自分自身がわからない。」という絶望的な事実は変わらないのだということを悟りました。
しかし、神は、憐れみ深く、忍耐強くあられます。愚鈍な私がまるで自覚できない私の必要を、主は引き出してくださり、私に気づかせ、そして、祈りへと導いてくださいます。
なんとなく、何かが足りないのだけれど、それが何かわからない。それは、人生最大の不幸でしょう。
しかし、全知全能の神、私たちを愛し、私たちをお造りになった神は、私たちのすべての必要をご存知でいらっしゃいます。この方に、大胆に近づき、それを教えていただきましょう。
主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。
あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。詩篇25:4- 5