「純粋に中立などという立場はない」ということなら、若い頃から教えられていました。
いったい何をもって右寄りなのか、どこからが左寄りなのか。
ただ「私という裁判官」が、「中立であると信じていること」だけが、「中立」なのでした。
そこでパウロは話し続けた。
「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳格な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。私はこの道(筆者注:イエスを救い主と信じる人々)を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。使徒22:2-4
ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。私は地に倒れ、『サウロ、サウロ(別名パウロ)。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。
そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。使徒22:6-8
パウロは、聖書に預言されていた救い主の到来を待ち望む、非常に熱心なユダヤ教徒でした。しかし、現実に救い主イエスが地上に来られたとき、彼はこれを「神の御名を汚すにせ救い主」と考え、愚かにも「神のために滅ぼさなければならない」と熱心に迫害していたのです。
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」ヨハネ9:41
私たちは、物事を正しく見ていると思い込んでいます。
もちろん、そう信じていなければ、毎日、不安でたまらないでしょう。
けれど、「私の目は、もしかしたら曇ってはいないだろうか。」と、謙虚に振り返る姿勢があれば、それは本当に幸いなことです。
私はクリスチャンとして7年歩み、「当然、神を正しく知っている」と思い込んでいました。
しかし、私は神を、純粋に聖書のみことばを通して知っているのではなく、私が長い人生で築き上げてきた「自分勝手な神イメージ」という色眼鏡を通して聖書を読んでいたがゆえに、ゆがめて見ていたことに気付かされました。
人はみな、自覚・無自覚に関わらず、「神なるもの」を知っています。それゆえ、本当に追い詰められたとき、神様助けてという思いが自然に出てきます。
しかし、聖書の語るまことの神を聞いたことがないと、想像の中で勝手な神イメージを造りがちで、それは概ね、親に対するイメージを投影しています。
私が勝手に造り上げていた神イメージは、罪や失敗を指摘し、裁き、罰を与える恐ろしい神でした。また、いつ神の御怒りに触れるかわからないので、常に顔色をうかがいながら、細心の注意を払い続けなければならない存在でした。
私は「ごめんなさい」と素直に言えない子どもでした。謝ることは、自分の非を認めることであり、非があるならば罰があるからです。それゆえ、かたくなに屁理屈を並べて自分を正当化しようとしてきました。
だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。ヨハネ12:47-48
確かに神は、正義を実現される神なので、さばきの日は必ず訪れます。
しかし、私たちは自分の欲と罪にまみれた者であり、自分の方法では、決して正しくも、きよくもなることができません。私たちはみな、さばかれ、罰せられなければなりません。もし、私たちが罰を受けないのなら、神は不正です。
それゆえ、神は、御子イエス様をお遣わしになり、私たちの身代わりとして完膚なきまでに罰することによって、処罰を完了し、私たちを赦してくださいました。
この代理人を受け入れた者は、代理人の処罰のゆえに完全に救われ、拒んだ者には代理の効果が発生せず、自分自身でさばきを受けなければなりません。
主イエス様が、さばくためにではなく、救うために来られたことは、クリスチャンならだれでも頭では理解しています。しかし、私は心の深い部分では信じていなかったことを、主から示されるまで気付きもしませんでした。
私は無自覚のうちに、失敗したら罰があるのではないかと恐れ、主が愛をもって教えようとしておられる訓練も、いじめやしごきのように感じ、深層心理では神を恨んでいたのです。
主を恐れることは知識の初めである。箴言1:7
私は自分自身では神を愛する者だと思っていましたが、その実、神を曲解し、神の罰を恐れ、神を憎む者であったことを見せられたとき、正しく「主を恐れる」ということの意味を悟りました。
それは、恐怖に基づいて恐れるということではなく、自分の目は歪んでおり、自分ではそのことすら悟り得ない者であるという絶望的な事実を認め、主の御前に謙虚になる、心を開いて素直になるということでした。
ちょうどテレビで、ある航空会社が事故再発防止の取り組みとして、「ミスを犯していても罰しない」というルールを確立したところ、当事者は安心して、自分の不注意や過失を、正直に告白するようになり、再発防止に大いに役立ったことが報じられていました。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。Ⅰヨハネ1:9
父なる神様。あなたは私たちをさばくためにではなく、救うために、主イエス様をお遣わしくださいました。どうか、あなたのその無条件の愛を真心から信じ、受け入れることができますように。
そして、自分では悟り得ない罪や汚れ、曇った目、ひねくれた心を、あなたのみことばと、聖霊の助けによって気付かせ、御前に素直に告白し、まったき悔い改めに導いて、きよめてください。
そして、子どものように濁りのない目と、純真な心で、本当のあなたの愛を知ることができるように助けてください。
主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。詩篇103:17