ようやく導かれた再就職先を、わずか数ヶ月で退職することになり、就職活動を再開することになりました。
そして、さっそく不採用通知が届きました。
主は何のために、たった数ヶ月の就職に導かれたのだろう。正社員を目指すことは、みこころではないのだろうか。パートだったら、就職できるのだろうか。これから私は、どうすれば良いのだろう。
私には、もう御声は聞こえなくなってしまったのだろうか…。
主よ。あなたは一体、私に何の恨みがあるので、このような仕打ちをされるのですか。一体、私が何をしたというので、みこころをお示しくださらないのですか。
それは、ほとんど祈りではなく、逆切れで、そのまま泣き寝入りしました。
翌朝、ふとメフィボシェテという名前が浮かんできました。
サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。
ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は答えた。「はい、このしもべです。」
ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」
彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」Ⅱサムエル9:6-8
かつて、少年ダビデは、信仰によって巨人ゴリヤテを倒し、サウル王の人気を凌ぐ存在となりました。サウル王は、ダビデをねたみ、恐れ、殺そうとしますが、王子ヨナタンは、ダビデを自分と同じほどに愛したので、ダビデのいのちを助け続けました。
やがて神のさばきが下り、サウル王とヨナタンを含む三人の王子たちも、異邦人の手によって殺されました。
ヨナタンには、メフィボシェテという幼子がいましたが、この動乱時にうばが落とし、足なえになってしまいました。
足の不自由なメフィボシェテは、何を考えて暮らしていたでしょうか。この足が癒されて、歩けるようになったら、どんなに良いだろうと、神に願ったのではないでしょうか。
やがてダビデが全イスラエルの王として立てられました。今や、メフィボシェテは「王の孫」ではなく、「反逆者の孫」となってしまいました。お家断絶の憂き目にあっても当然だと、覚悟したのではないでしょうか。
ところが、ダビデ王は、ヨナタンのゆえに、メフィボシェテに恵みを施しました。
それは、かつてヨナタンがいのちの危険を犯してまでもダビデに示してくれた愛と、「私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から絶たないでください。Ⅰサムエル20:15」というヨナタンの遺言を、ダビデは決して忘れることがなかったからでした。
ダビデは、メフィボシェテを必要としていたわけではありませんでした。メフィボシェテを用いて何かをしようと考えていたわけでもありませんでした。実際、メフィボシェテは足なえでした。
メフィボシェテには、なぜダビデ王がこのような好意を示してくださるのか、まったく見当すらつきませんでした。
すべては、「メフィボシェテの何か」によるのではなく、「ヨナタンのゆえ」でした。
キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。Ⅰペテロ2:24
私たちの救いは、「私の何か」によるのではありませんでした。
私が善行をしたからとか、私に取り柄があったからとか、私が信仰深かったからではありません。
私たちは、良いものを得るためには、自分で努力して対価を払わなければならないと考えてしまいます。
けれど、私たちには、どんな良いこともできません。何もできない私たちのために、主イエス様は、私たちに代わって十字架という対価を払ってくださいました。
メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。Ⅱサムエル9:13
メフィボシェテの足は癒されませんでした。しかし、宮に入ることが許されない者であった、足なえのままの状態で、生涯、王の食卓で食事をする特権に与りました。
彼は、足なえであったがゆえに、いつまでも王宮にとどまることができました。