いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

罪人こそ救われる

 

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」マルコ2:17

 私の母は、「自分は正しく生きてきたので、当然、天国に行くことができる」と豪語しています。この恐るべき傲慢さは、さすがに私の母だと納得するやら、呆れるやら…。

 母に、聖書によれば、心の中で思っただけでも罪であること、罪は「大小」ではなく、「有無」が問題であることを話しましたが、そんな完全な人間などいない、自分が悪いことをしていなければそれでいいのだと言っています。

 日本人は絶対者を知らない、と言われます。

 絶対者を無視したとき、すべては相対的なものになります。どちらがベターであるか。どちらが得策か。「人」と比べて、上か下か。「世間」に後ろ指さされないかどうか。この「人」も「世間」も、絶対的なものではありません。

 ある意味、非常に柔軟な考え方ですが、反面、捉えどころのない、極めていい加減な思考です。このような世界に真理はありません。

 ことのさばきをつけるのは、常に「私」です。「私」が世界の裁判官であり、つまりは「神」なのです。

 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。Ⅰヨハネ1:10

 罪を犯そうという明確な悪意をもって、罪を犯している人は多くはないでしょう。

 私も罪は犯したくないと思っています。その日その日、細心の注意を払い、最善を尽くして、正しく生きてきたつもりです。けれど、振り返れば、何と浅はかで、思慮深さに欠け、愛のない歩みであったかと、本当に悲しくなります。

 私の人生は、信仰を与えられてからも、常にその繰り返しです。

 神を知れば知るほど、神の聖さを教えられ、神に近づけば近づくほど、神の光に照らされて、白いと思っていた自分の衣に、気付かなかったしみや汚れが浮き彫りにされていきます。

 主を恐れることは知識の初めである。箴言1:7

 私は、私という人間が、決して正しい者にはならないことを教えられ、それゆえ「主を恐れる」ことを学びました。今日、私の考える最善を尽くしても、明日の私の目からさえ不完全な罪人であるなら、私に何ができましょう。

 しかし、神に感謝します。キリスト・イエスは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、救うために来てくださったのです。私は罪人であるがゆえに、主が救ってくださいます。

 主は不完全な私に、いきなりパーフェクトを求めることなく、忍耐を持って、日々、養い、導いてくださいます。

 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。Ⅰテモテ1:15

 

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