いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神は不公平か

 

 私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。

 その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。ローマ11:25-26

 私の友人は、「イスラエル人はみな救われる」というのは、不公平であると主張しています。彼は、クリスチャンホームの子どもで、幼い頃から聖書の話を聞いていますが、神の方法に納得できない彼は、神の救いを受け入れることができません。

 彼は、神の救いを拒んだ者が、永遠の火の刑罰に行かなければならないことを知っているだけに、あまりにも不公平だと憤っています。

(※イスラエル人がみな救われるのは、終末の一時期のことであり、今の恵みの時代は、イスラエル人と異邦人の区別はなく、すべての信じる者が救われます。)

 別の友人も、クリスチャンホームの子どもですが、身体障害者を造られた神は公正ではないと考え、神の不公正を自力で正すために、社会運動に身を投じています。

 彼らの論理は立派なもので、この世では、いかにも正当に見えます。

 彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。

 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。ルカ23:21-24

 自らを正しいとする者は、結果として他者を不正義とします。

 自ら犯してきた罪を棚に上げて、神のように、他者の不正義をあげつらうことは、人間にとって痛快です。

 彼らの論理を突き詰めれば、不公正、不平等を行なっている神は、十字架で処刑されなければなりません。それが、「彼らの正義」の実現方法になります。

 そして、歴史上も、実際に、そのようになりました。

 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:33-34

 しかし、神は、このように高慢、傲慢な罪人たちの代わりに、自ら十字架におかかりになってくださいました。

 彼らは明確な悪意をもってイエス様を十字架につけた確信犯でした。

 しかし、イエス様は、十字架の苦しみの中から、そんな彼らの弁護士となり、「彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と、意思能力に欠ける者ゆえ、刑罰を免れさせてくださいと、父なる神にとりなしをしてくださいました。

 私たちはみな、神を無視し、神に反逆し、神に悪意さえ持って、歩んできました。

 私たちはみな、神によって滅ぼされても当然のことをしてきたのです。

 しかし、神は愛です。私たちが罪赦されるのは、ただこのイエス様のとりなしの祈りのゆえです。

 この救いは、今も、誰にでも、平等に開かれています。

 神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。Ⅰテモテ5:9

 

 いのちのいずみ ホームページ トップへ