いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神の子どもとされる特権

 

 「あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか。』と、一度でも、言ったことがあろうか。」 Ⅱサムエル7:5-7

 ダビデは、ゆえなくサウル王にいのちを狙われ、荒野から荒野へと追われる日々を余儀なくされました。

 しかし、ダビデは、生ける神が自分を救い出してくださることを信頼し、自分の手でサウル王にとどめを刺すチャンスが巡ってきたときも、神によって立てられた王に、自ら手を下すことはしませんでした。

 やがて時が満ち、サウル王に神のさばきが下り、ダビデが王として立てられました。

 ようやく自分の家に住むことが許され、安息が与えられたときダビデは、これまで自分を守り、導いてくださった神のために家(神殿)を建てたいと思いました。

 ダビデは、心から神に感謝し、喜びに溢れて、神の家を建てたいと願いましたが、神はそれを喜ばれませんでした。

 わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに主はあなたに告げる。『主はあなたのために一つの家を造る。』 Ⅱサムエル7:11

 「神の家を建てる」ことを願ったダビデに、主はそれを許さず、主が「あなたのために一つの家を造る」とお応えになったのです。

 私たちが最も基本的なこととして、知らなければならないことは、私たちは本当に無力な人間であるということです。

 かつては、神の御前に取るに足らない者と思いつつも、自分の持っているわずかばかりの有用と思われる資源を捜し出しては、神のために良いことをしようとしてきました。

 けれど、神に近づこうとすればするほど、神の光に照らし出されて、とことん腐り果てた自分の醜い姿、ゆがんだたくらみが暴露され、何の言葉も出なくされます。

 「得意」という言葉には、「上手で、そのことに自信もあること」という意味の他、「誇らしげなこと」という意味がありました。

 私は多くのことを、「神のために」、「得意気な顔」でしてきたことを教えられ、恥じ入りました。

 私は神のために、家を建てたいと思っていましたが、その私という人間は、性根から腐り切っているにも関わらず、粉飾、偽装をして、自分自身すら欺くことができるほどに信用のならない偽り者でした。

 私は神のために、家を建てるどころか、何一つ、良いことをすることができません。

 しかし、憐れみ深い神は、これほどまでに腐り果てた私を、私以上によくご存知であられるのに、このような者を救い出すために、御子を地に下され、十字架に釘付けてくださいました。

 神は、救い出してくださった者たちにさえ、恩返しのための労働を要求されることはなく、「あなたのために一つの家を造る」とおっしゃってくださいました。

 それは、私たちが、神のしもべではなく、神の子どもだからです。

 何の誉れもない者を、神の子どもとして受け入れてくださった父なる神様と、贖い主なる主イエス様に、ただ賛美、栄光、誉れが帰されますように。

 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 ヨハネ1:9-13

 

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