いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

十字架の血による平和

 

 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。ルカ9:23-24

 私たちの集会は人数も増し加えられ、周辺の駐車場から、数台分ずつを何ヵ所か借りています。

 私が駐車するのは、そのうちのひとつ、L字型に車を駐車するように区切られた駐車場です。集会ではL字の一辺に当たる5台分を借りており、概ね最初に到着する私は、いつも入り口から最も離れ、奥まったコーナー部分に駐車していました。私はそこを「下座」と考え、自分の定位置としていました。

 先日、いつものように駐車しようとしたら、私の定位置に見知らぬおじさんが立っていました。そのうち、おじさんも邪魔になると気付いて、どいてくれるだろうと思い、ゆっくりバック音を響かせながら近づきましたが、おじさんは立ちはだかったまま、何かを叫んでいます。

 ドアを開けて、おじさんを見ると、「もっと離れて止めてくれ」と言っていました。内心、何であなたに駐車位置を指図されなきゃならないの?と、怪訝な顔をしていると、「今から車を出すから、なるべく離れて止めてくれ」とのこと。

 おじさんの駐車スペースはL字のもう一辺のコーナー付近のようなので、私も状況を了解し、車を一旦、前進させ、広いスペースをあけて、おじさんが発車し終わるのを待つことにしました。

 ところが、おじさんはエンジンをかけたまま、一向に発車しようとしません。何をしているんだろうと、再びドアから顔を出すと、相変わらず「なるべく離れて止めてくれ」と要求し続けています。

 正当な対価を払って借りている駐車場のどこに止めようが、あなたにとやかく言われる筋合いではないと腹を立てつつも、私たちの駐車スペースについている「キリスト」という看板のゆえに、忍耐して二台分空けて駐車しました。

 すると、おじさんは、バックで私の定位置いっぱいに下がってから、発車していきました。

 論理的な私は、何とも気分がすっきりせず、今後、どうすべきなのだろうと思案していました。

 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。

 それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。Ⅰコリント9:12

 私たちが判断すべきことは、論理的に正当な権利であるかどうか、ではありませんでした。論争で勝利を得ることはたやすいことですが、その結果、このおじさんは、間違いなくキリストにつまづくでしょう。キリストの福音に少しの妨げも与えないこと、それが最優先されるべきことでした。

 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。コロサイ1:1-20

 「平和」を愛さない人は、恐らくいないでしょう。誰もが「平和」を願いながら、「平和」を実現するために「戦争」をしています。

 それを誤りとして、「対話」で「平和」を実現しようと試みる人たちもいます。しかし、「対話」とは、所詮は、「論理」に過ぎませんから、それで「平和」が実現できるはずもありません。

 罪と欲にまみれた人間の知恵では、「平和」を創り出すことは不可能でしょう。

 ここに、神の知恵があります。

 神の「平和」の実現方法とは、「御子の十字架の血」でした。

 それは、すべての罪の責めを一身に引き受け、自らを犠牲にささげ、罪人を赦すという方法でした。

 それは、人の望むところではなく、人からは決して出てこない神の奥義だと教えられます。

 「自分を捨て」、「日々、自分の十字架を負う」とは、私の思い、私の好み、私の論理、私の計画…、一切の「自己中心」を十字架に釘付けるということでした。

 いえ、それはすでに釘付けられ、葬られた過去のものでした。神に感謝します。

 わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。ルカ9:24

 

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