自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。ルカ14:27
十字架、それは、肉体的な痛みと、精神的な辱め、さらに、父なる神様から捨てられるという霊的な闇、あらゆる試練と苦難の象徴であると同時に、そこまでの犠牲を払ってでも、私たちを救い出したいという主のまったき愛の証しです。
私たちは、私たちを愛し、祝福してくださる神様を愛しています。けれども、自分が十字架を背負うことは御免被りたいのです。
私たちは、主のよみがえりを喜びます。けれども、自分の十字架には指一本触れたくないのです。
数十年前に私たちの集会で、初めて福音キャンプ(合宿)を開催した兄弟(男性クリスチャン)がおられました。
キャンプには多くの子供たちも集い、海辺で戯れていましたが、ひとりの子どもが溺れたという第一報がもたらされました。
その時、その兄弟は、主の御前にひれ伏し、「この事故がつまづきとなり、福音キャンプが二度と開催できないようなことになりませんように。どうか溺れた子どもが、私の子供でありますように。」と祈られたそうです。
親であれば、わが子は誰よりもかわいいはずです。例え、「どうかわが子でありませんように」と祈ったとしても、私には責める思いはありません。
しかし、その兄弟は、とっさの事故に動揺することなく、「犠牲者がわが子でありますように」と祈られたのです。
そのように祈りえたのは、まさに「自分の十字架を負って」始められたキャンプだったからでした。
その祈りは、確かに主に聞かれました。
溺れたのは、その兄弟の長男でした。幸いなことに、某大学生に救助され、無事に一命を取りとめました。
その後、その兄弟も、救い出された長男も、地上で信仰の馳せ場を走り尽くして、天に帰られました。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
民衆はそばに立ってながめていた。
指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」ルカ23:33-35
何と私は、キリストの十字架を冷淡に「そばに立ってながめて」いるだけの民衆のひとりでした。
私は、「自分の十字架を負って、主に従われた」彼らの信仰の歩みの前に、わが身かわいさばかりの自分を、ただただ恥じ入りました。
けれども、私の決意や根性によっては、決して十字架は担うことができません。
すべては、ただ神によるのです。
事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16
あわれみ深い神は、私の無力をよくご存知です。
主よ。私は自分では、十字架を負うことはできないけれど、あなたが力を与えてくださるのなら、私はそれを負うことができるでしょう。どうか、ただあなたが、私を導き、あなたの御足跡に従わせてくださいますように。