いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

愛は神から出ている

 

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。Ⅰヨハネ4:10

 自分自身よりも、主を愛さなければならない、と教えられ、自分自身を愛するよりも、主を愛したいと、切実に願えば願うほど、そこには、情けないほどに、主に対する愛のない自分自身の姿が浮き上がってきました。

 主は私のために、いのちをお捨てくださり、それゆえ私は罪赦され、この世の暗闇から驚くべき光の中に移されました。その言葉に尽くすことのできない恵みに、感謝しない日はありませんが、私の心は、この主の愛に対して、まるで氷のようだと感じるばかりです。

 かつて私は、「自分は良いところに欠ける者」だと思っていましたが、自分という存在を知れば知るほど、「良いところなど一つもない者」だという恐るべき現実を認めざるを得なくなりました。

 ありのままの自分の姿を受け入れるということは、何と辛く、みじめなことでしょう。

 信仰を与えられて7年が経とうとしています。

 年数を重ねれば、私は次第に進歩していくものだとばかり思っていました。

 しかし、人は進化しないのだと、改めて教えられています。「進化論」とは、とことん人を惑わす者、悪魔から出た言説だと思います。

 あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」

 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。イザヤ14:13-15

 ある兄弟(男性クリスチャン)が、クリスチャンの成長について、こんな話をしてくださいました。

 ある人に、理由なく殴られたが、我慢できた。「我慢できた自分は、成長できた」と考えた。

 ところが、また別の人に、理由なく殴られ、つい怒りを露わにしてしまった。「我慢できなかった自分は、やっぱりまだ成長していない」と落ち込んだ。

 …というのが、クリスチャンの成長ではない。

 自分という人間は、殴られれば、どうしようもなく怒ってしまう性質を持っている。

 しかし、このように救いがたい自分を、神は愛され、このような者のために、御子を十字架にかけてくださった神の偉大さを、その悔い改めの度ごとに、さらに深く覚え続けること、それがクリスチャンの成長です、と。

 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。ローマ6:4

 本当に、残念ながら私という人間は、改善されることがありません。

 それゆえ、主は「古い私」を葬り去ってくださり、「新しいいのち」を与えてくださいました。

 愛は神から出ているのです。Ⅰヨハネ4:7

 そうです。「古い私」のうちに主を愛する愛はありません。

 努力して、愛そうと試みても、ないものを出すことはできません。

 愛は神から出ている。これは、私にとって、本当に福音でした。

 私はただ謙遜に手を差し伸べれば良いのです。あなたの愛を私にください、と。

 不思議なことですが、私は神からいただいた愛をもって、初めて主を愛することが可能になるのです。

 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。Ⅰヨハネ4:7

 

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