いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

自分自身よりも、主を愛するということ

 

 たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。Ⅰコリント13:2

 完全な信仰があっても、愛がないなら何の値打ちもないという、このみことばの「愛」とは、私は「隣人に対する愛」だと思っていました。

 私は主に導かれて、新しい地に出てきました。私はこの地に、神の福音が宣べ伝えられる主の宮が建てられることを期待して、祈ってきました。

 しかし、目に見える状況は少しも開かれず、変わり映えのしない日常の中で、「私はこのまま新しい相続地を見ることもなく、朽ち果てていくのだ…」と、どんよりしていました。

 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。ピリピ3:20

 そんな時、若い頃の私に似た小生意気な若造兄弟(男性クリスチャン)が、「ひとつだけ願い事が叶えられるとしたら、何を願いますか?」と尋ねてきました。

 私が物憂げに「そうねぇ…。早く迎えに来てくださいかなぁ…」と答えると、彼は「何を言ってるんですか?!」と気色ばんで見せました。

 それで私もついむきになって、「でも、これってクリスチャンの正解でしょう?!」と反論すると、呆れ顔で「言っていることが正解かどうかの問題じゃないんですよ。それがどこから出ているのかが問題なんですよ!」と言われ、打ち砕かれました。

 実に痛いご指摘でした。

 その時、「愛がなければ何の値打ちもない」の「愛」とは、「主に対する愛」だったのだと気付きました。

 人の目に、どれだけ多くの奉仕をしているように見えても、その動機が、主に対する熱い愛でなければ、何の値打ちもありません。

 大切なのは、その行為が善か悪か、聖書の基準に照らして妥当かどうか、などではなく、主への愛が源かどうか、だったのです。

 私の信仰は、何と論理的な信仰であったかと恥じ入りました。

 愛は、論理ではありません。論理では説明がつかないような愚かな振る舞いさえ、愛はものともしません。

 私はいったいどれだけ主を愛しているのだろうか。主を愛するとはどういうことだろうと、私は今、思い巡らせています。

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 そこで、イエスは彼に言われた。

 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。

 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。マタイ22:36-39

 改めて、聖書を読むと、隣人は「自分自身のように愛しなさい」と書いてありますが、主を「自分自身のように愛しなさい」とは書いてありませんでした。

 主は、全力で愛さなければならない、つまり、自分自身よりも、主を愛さなければならないのだと、教えられました。

 私は主を愛していると思っていました。

 けれど、自分よりも、愛しているでしょうか。

 答えはありません。もし、その答えが、私が論理的に導き出した正解であれば、何の意味もありません。

 今はただ、ひたすらに主への愛によって、心の思いを満たされたい、と願っています。

 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」

 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」ヨハネ21:15-18

 

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