いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

「善人たち」に十字架につけられた主イエス様

 

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。

 「あなたは、どこにいるのか。」

 彼は答えた。

 「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

 すると、仰せになった。

 「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

 人は言った。

 「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 そこで、神である主は女に仰せられた。

 「あなたは、いったいなんということをしたのか。」

 女は答えた。

 「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」 創世記3:9-13

 これは、誰もが一度は聞いたことのあるエデンの園のアダムとエバの物語の一節です。

 アダムは、自分の罪を素直に認めず、「あなたが…」「この女が…」とその責任を転嫁し、エバも同様に「蛇が…」と、自分を正当化しました。

 私たちはあまりにも「善人」なのです。「私は悪くない。」「社会が悪いのだ。」「環境が悪かったのだ。」「運が悪かったのだ。」「仕方がなかったのだ。」

 誰もみなあまりにも「善良な人々」ばかりで、罪の責任を取る者がいないので、神の御子、主イエス様は地上にまで下って来られ、すべての罪の罰をその身に負ってくださいました。

 「善良な人々」は、いつも「悪人」を捜し出し、「悪人」をさばくことで、心の平安を保っています。

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人(※律法に詳しく、忠実な一派)で、もうひとりは取税人であった。

 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」ルカ18:9-14

 小学生のとき、道徳の教科書にとても印象的なお話がありました。うろ覚えですが、概略は次のようなものでした。

 「僕の家は、家族全員、悪者ばかりなので、とても幸せです。先日、お兄ちゃんとふざけていて、僕がちゃぶ台の上にあったコップの水をこぼしてしまいました。僕がお母さんに謝ると、お兄ちゃんは、追いかけた僕が悪かったと言い、お母さんは、水を置きっぱなしにしていたお母さんが悪かったと言いました。」

 いつも「善人」になろうとしている私が、「あの人は、なぜ…」と心の中でさばいている私が、主イエス様を十字架につけたのだと改めて教えられます。

 キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。Ⅰテモテ1:15

 主イエス様は、「善人」として世をさばくためにではなく、すべての人の罪を一身に背負うために、この世に来てくださいました。

 罪を犯されなかった主イエス様は、「私は悪くない」と主張できる唯一のお方でした。

 けれども、「私は悪い」と告白できない私のために、身代わりとなって十字架の上で、恥とそしりとあざけり、苦しみを受け尽くしてくださいました。

 このお方のまったきへりくだりと、聖さ、美しさ、考えられない偉大な愛に、私はどのように応えればよいのかわかりません。

 「善人の座」に着かないこと、主イエス様が私のために何をしてくださったかを覚え続けること、ただそこにとどまり続けることができるようにと祈りたいと思います。

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

 イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。ヘブル12:2-3

 イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。ヘブル13:12-13

 

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