いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

神に喜ばれるささげもの

 

 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」Ⅰサムエル16:7

 「クリスチャンになるには、良い行いをする人にならなければならない」と思い込んでいる求道者にこんなたとえ話をしました。

 Aさんは、ご主人の大好物がカレーライスだと知っていたので、彼に喜んでもらいたいと思って、カレーライスを作りました。

 Bさんは、ご主人の大好物がカレーライスだと知っていたので、カレーライスを作っておけば無難だと考えて、カレーライスを作りました。

 目の前にあるのは、同じカレーライスです。神様はどちらを喜ばれるでしょうか。

 主は「目に見える行い」に目を留められる御方ではなく、「心の態度」に目を留められる御方です。

 彼女が去った後、ふと私は、もう一人の人がいたことに気づかされました。

 Cさんは、ご主人の大好物がカレーライスだと知っていました。Cさんは、心からご主人を愛していたので、カレーライスを作ってあげたいと切実に願っていますが、身体が不自由なため、どうしてもカレーライスを作ることができません。

 主が最も喜ばれる人は、Cさんではないか、と。

 Aさんの前には、カレーライスが用意されています。Aさんは、少し誇らしげな思いで、ご主人の喜んでくれる姿を楽しみにしているかも知れません。

 Cさんの前には、カレーライスはありません。Cさんは、自分の不甲斐なさに、うつむいて涙を浮かべながら、心の中で愛するご主人に詫びているかも知れません。

 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。

 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。詩篇51:16-17

 私たちに何かができる力があるとすれば、それは感謝すべき、神様からの賜物です。それを用いることは決して悪いことではないでしょう。

 けれど、そこに「私はできる」「私はできた」という高ぶりの心が知らず知らずのうちに入ってくることには、本当に気をつけなければならないと改めて考えさせられました。

 「私には全能の神様の前に、喜ばれるような良いことは何ひとつ行う力がありません」と、砕かれて告白する心こそが、本当に「主に喜ばれるささげもの」でした。

 このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。Ⅰ歴代誌29:14

 

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