いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

愛なる主に信頼し、従い続ける

 

 エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。使徒1:4

 主の御声に聞き従って仕事を捨て、間もなく一年半になろうとしています。

 次に進むべき道も、主は必ず開いてくださると信じて、就職試験を受けてきました。結果は連戦連敗です。これまでの人生において、試験に落ちたことはほとんどなかったので、それは砕かれ続ける経験でした。

 最後に受けた面接先からは、期日になっても連絡がなく、三度も期日を延期され続けました。そんな中で聞こえてきたのは、冒頭のみことばでした。

 「待ちなさい」…、多くの人は待つことが嫌いでしょうが、とりわけせっかちな私には、苦しいみことばでした。

 いつまでも無職でいることは、「通常ではない」ことで、両親も友人たちも気をもみ、兄弟姉妹(クリスチャン)までも心配してくださる始末。

 私には主のみこころがわからなくなりました。

 この先の人生は、すべて主に従って行きたいと願っていますが、主のみこころがわからないと一歩も進むことができません。主よ、どうかみこころをお示しくださいと祈り続けましたが、何の応答もありません。

 私は考えていました。私が仕事に就いていないことは、「正しいことではない」「良い証になっていない」「骨折って働くことは聖書でも勧められている」、論理的に考えても、せっせと就職活動をすべきではないか、と。

 しかし、主のみこころは「待ちなさい」のままなのだとわかりました。

 神は仰せられた。

 「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」創世記22:2

 神はアブラハムに、想像を絶する無理難題を要求されました。

 100歳でようやく与えられた息子「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と、かつて神ご自身が約束を与えたにも関わらず、その子の「殺人」命令です。

 私ならば、「神様の要求は、論理的に整合性が取れていないし、道徳的にも正しくないので、間違っていると思います」と神を退けたことでしょう。

 しかし、アブラハムは、この要求に素直に従い、翌朝早く、イサクをささげるために出かけていきました。このアブラハムの神に対するまったき従順と信仰は神に喜ばれ、イサクに手をかけようとしたそのとき、神はそれを止められ、身代わりの雄羊をいけにえとして備えてくださいました。

 「神に従う」ということは、私の知恵に合致しているか否か、私が論理的に納得できるか否かではなく、「天地万物をお造りになった神である主の命令であるから従う」ということなのだと教えられました。

 私がそのとき理解できてもできなくても、私の身代わりに神の子羊なる主イエス様を十字架にかけてくださった神の愛に信頼し、神の御声にどこまでも素直に従っていく、それが信仰の歩みなのだと。

 私が人の目にどのように愚かに映ったとしても、神が置かれたところにとどまって、神から次のみことばが与えられるまで、神を信頼して待ち続けたいと願っています。

 あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

 主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。詩篇127:2

 

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