あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。マタイ21:22
祈りは、本当に聞かれるのでしょうか。
信仰を与えられるまで、私は神が存在すること自体に疑問を持っていたので、祈りとは空気に向かっての独り言のようなものでした。
そもそも私は、もし神が実在するなら、教養の一つとして身に付けた方が得策だと考えていたに過ぎませんでした。
どれくらいの期間、どんなことを祈っていたか記憶にありませんが、それはとても愚かで空しい行いのように感じられました。
しかし、時至って、神は私に、ご自身が生きておられ、私を言葉に尽くせないほど愛しておられることを、祈りのうちに啓示してくださいました。
「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神(使徒14:15)」を啓示されたとき、「私の人生の主人公」はもはや私自身ではなく、この御方であると悟り、この御方に従って生きていく決心が与えられました。
空しい独り言としか感じられなかった祈りは、確かに神に聞かれていました。
信仰を与えられた私は、毎朝毎晩、神に祈るようになりました。
けれど、最も切実な祈りは、応えられることはありませんでした。
祈る→聞かれない→また祈る→まだ聞かれない→さらに祈る→やっぱり聞かれない。その祈りは、ほとんどデフレ・スパイラルのような様相を呈し、神に対する不信感と不信仰は、日ごとにこじれていきました。
だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。ピリピ2:21
多くの人にとって祈りとは、試験合格、良縁成就、健康長寿など、自分の幸せを求めることでしょう。私の祈りも、まさに具体的なご利益を求めるものでした。
私は自分が幸せになることを願っていました。しかし、私を愛し、私の罪を贖うために、命までお捨てになった唯一の御方、主のことを思ってはいませんでした。
一体、この御方は、父なる神に何を祈られたのでしょうか。
わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。マタイ26:40
驚くべきことに、この御方はご自身の幸せを祈られたことがありませんでした。
なぜでしょうか。私たちは神に幸せを求めてはならないのでしょうか。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。
しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:31-33
この御方は、父なる神が、愛に満ち溢れ、すべての必要を満たしてくださることを心から信頼していたので、あえてご自身の幸せを祈られなかったのだと気づかされました。
父なる神の愛に対する全幅の信頼、それが信仰なのだと。
そして、この御方は、父なる神との交わりのない人々のために、信仰の弱っている者たちのために、ひたすらとりなしの祈りを捧げてくださいました。
「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:33-34
わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。ルカ22:32
私はこの御方の、このとりなしの祈りによって救われ、今も信仰の中に保たれていました。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。マタイ6:33
愛する天の父なる神様。どうか私を、父なる神様のみこころにかなった祈り、父なる神様に喜ばれる祈りを、心から祈ることができる者としてくださいますように。