いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

絶望という病

 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

 その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して 全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、 ふさわしいことであったのです。  ヘブル人への手紙2:9-10

 

  「人を見れば失望し、自分を見れば絶望する」。

 「絶望は、死に至る病である」と、キルケゴールは語りました。

 人は誰も、自分の意思によって生まれたわけではありません。

 そのような人間が、人間を見つめていても、生きる意味は決して見出すことができません。

 いくら自己を探っていっても、出てくるものは高ぶりか虚無です。

 しかし、聖書は神が人を創造され(原因)、神のために人は存在している(目的)と語っています。

 神は人が絶望という闇の中にとどまり続けることを望まず、神の子イエスという光を与えてくださいました。

 視点を転じて、キリスト・イエスに焦点を当てたとき、絶望という病は、光に照らされ、溶け去るのです。

 

 イエスはまた彼らに語って言われた。

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、 決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ福音書8:12