いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

信じることから始まる

 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。 すると、たちどころに出血が止まった。

 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、 「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言った。

 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから。」と言われた。

 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。

 そこで、イエスは彼女に言われた。

 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」

 これを聞いて、イエスは答えられた。

 「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」  ルカの福音書 8:41-50

 

 知人は持病のため通院していますが、どこかしら医者を疑っています。

 「症状が良くなっているのに、毎回検査する。薬の種類が次第に多くなる。儲け本位なのではないか」…。 考え出すと夜も眠れないと訴え、自己判断で薬の服用を調整しています。

 「信じることのできない医者であれば、変えた方が良いのでは」と助言すると、「やたらに変えるのは良くない」と言います。

 疑いから始めると、治る病も治らなくなってしまうのではないでしょうか。

 やみくもに信じていては、確かに失敗することもあるでしょう。けれど、神は私たちに、良心を与えてくださいました。私たちは人として良いこと、美しい行いを判断することができます。

 ただ、そこに自分の欲がからむとき、私たちは判断を誤ってしまいます。多くの言い訳によって、邪悪な良心は正当化されます。

 しかし、聖書のみことばに触れたとき、私たちの良心は洗い清められ、判断する心が養われます。

 

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも 刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。 ヘブル人への手紙 4:12