しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。…」 イザヤ書49:14-16
「母さんは僕より兄貴を愛していた…」。
その言葉を聞いたとき、この母子の深い愛情の齟齬に胸が塞がりました。
身体に障害を持ってこの世に送られ、困難な人生を歩んできた彼を、最も近くで見守ってきた母が 彼をどれほど深く憐れみ、愛してこられたかを想像することは難くありませんでした。
不器用な彼は、幼い頃から素直に母に甘えることができず、そんな彼に母はどのように 接してあげればよいか随分思い悩まれたのではないかと思います。
しかし、「実感」は、「事実」に優先するのです。
神は私たち一人ひとりを確かに愛しておられますが、神は目に見えないので、愛されている実感を持つことは 困難かも知れません。
いろんな愛情表現があります。例えば、高価な贈り物をすれば、目に見えてわかりやすいかも知れません。
けれど、本当の愛は、そんな押し付けがましいものではなく、むしろ相手に気づかれないような細やかな配慮にこそ 表されるのではないでしょうか。
それは、相手の立場に立ってみたときに、初めて見えてくる視点です。
わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。
わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。 イザヤ書65:1-2