いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

恥の多い生涯

  彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。 だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる。」と主は仰せられる。

 主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、 それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない。』と言った。 また、わたしは、あなたがたの上に見張り人を立て、『角笛の音に注意せよ。』と言わせたのに、 彼らは『注意しない。』と言った。…」  エレミヤ書6:15-17

 

 実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。

 彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない。  エレミヤ書4:22

 

  「恥の多い生涯を送って来ました。」と書いたのは、太宰治でした。

 「しなかった後悔よりも、した後悔」を選んで生きてきた私の人生もまた恥の多い半生でした。

 しかし、「恥の多い人生であった」と気付くことができたのは何より幸いなことでした。

 神はこの恥を悔いた者を救い、永遠のいのちを与えるために、十字架の贖いを備えてくださいました。

 

 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 ペテロの手紙第一2:22-24

 

 このような「ばかな子ら」をも「わたしの民」と呼んでくださり、十字架による和解まで備えてくださった、 この神の愚かしいほどの愛を私は心から慕っています。

 

 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 詩篇51:16-17