いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

不器用な愛情表現

  道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。

 「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」  同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。 そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。 『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」

 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

 マタイの福音書 27:39-44

 

  夏の夜空に、その純白の花はあたかも舞い飛ぶ蝶のように、鮮やかに浮かび上がって見えました。

 その美しさを称えた彼女のために、彼は衆目を省みず、その花を手折ると、黙ったまま彼女に差し出しました。

 その枝は、随分、高いところにあり、その繊維質は思いの他、手強いものでしたが、彼は諦めませんでした。

 彼の振る舞いは、まったく冷静な判断を欠いた、愚かしいものでした。

 しかし、その不器用な愛情表現は、彼女の心を捉えました。

 私たちの主イエス様は、私たちの罪を贖うために、人々からののしられ、あざけられ、 むち打たれ、十字架にかかってくださいました。

 そして、辱めと苦しみの極みで、私たちのために、とりなしの祈りを捧げてくださいました。

 

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」ルカの福音書23:34

 

 神の人類救済の方法は、「十字架による贖い」でした。

 すべてのことがおできになる神なのですから、もっと賢く見える、格好良い方法を採れば良かったのにと思うことがあります。

 けれど、私たちの罪は、神の御前にそのように軽いものではありませんでした。

 主イエス様は、このような私たちをも愛するがゆえに、自ら愚か者となって、溢れるばかりの愛を表してくださいました。