キリストは、神の御姿であられる方なのに、 神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、 実に十字架の死にまでも従われたのです。
ピリピ人への手紙 2:6-8
「ぞうきんになってください」
ある女性クリスチャンが嫁いだとき、お舅さんにこう言われたそうです。
それを聞いて、私は既に天に召されているその男性クリスチャンの信仰姿勢に砕かれました。
もし、私がそのように言われたら、「はい、わかりました」と答えたと思います。
けれど、「では、初めにここを拭いてください」と言われたら、どうでしょう。
「えっ。私が拭かなければならないのですか。そんなことをしたら、私が汚れてしまう‥」。 そう思ったとき、「ぞうきん」の意味を考えさせられました。
「ぞうきん」は、働けば働くほど、周りはきれいになります。けれど、「ぞうきん」は、 それとは裏腹に汚れて、次第に見栄えのしないものになっていくのです。
「ぞうきん」は、どんな家にも、なくてはならない存在です。 けれど、「ぞうきん」に感謝する人は誰もいません。 かえって、「ぞうきんを、こんなところに置かないで」と文句を言われるほどに、疎まれる存在です。
私たちの主イエス様は、私たちの罪を拭い清めるために、初めに「ぞうきん」となってくださった方でした。
誰かから、ほめられたり、尊敬されたりすることを願うのではなく、「神のぞうきん」として生きること を心から願う者でありたいと、しみじみ感じさせられました。