いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

福音に始まり、福音にとどまり続ける


キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ5:1

 

イエス・キリストは十字架の御苦しみを通して、罪の奴隷(ローマ6:6)であった私たちを解放してくださいました。


キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。ガラテヤ3:13

 

キリストは、私たちを律法ののろいから解放してくださいました。

今、私たちはキリストにあって自由の身とされました。

この尊い自由を私たちクリスチャンは、日々どれくらい味わっているでしょうか。

もし私たちが、この尊い自由を充分に享受できていないとすれば、それは主様にとってどんなに残念なことでしょう。

私たちに与えられている自由という福音を、決してサタンに欺き取られてはなりません。

 

私たちはどんな風にサタンに欺かれていくかについて、考えてみたいと思います。

 

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。

エスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
エスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。ヨハネ2:1-11

 

良く知られているカナの婚礼の記事です。

ある兄弟はこんな学びをされました。「80~120リットルの水がめ6つを、ふちまでいっぱいにするのは、非常に大変な作業であったと思うが、イエス様のおことばに従った結果、水はぶどう酒に変えられた。」

随分、昔の話ですが、私は思いました。みことばには、八十リットルから百二十リットル「入り」と書いてあるし、きよめのしきたりなのだから、当然、初めからある程度の水は入っていたのではないか。

英語版を参照しても、「each holding from twenty to thirty gallons」です。

 

私は思います。人間は努力と苦労が大好きなのだと。


実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。伝道者の書2:10

 

「私は大変な努力をしました。」「こんなに労苦しました。」

それが人間の誇りであり、喜びなのです。

人間は、努力と労苦が報われるというサクセスストーリーが大好きなのです。

しかし、それこそが人間の傲慢なのではないでしょうか。

 

いったい、「私は努力した結果、イエス・キリストによる御救いにあずかりました」などというクリスチャンがこの世に一人でもいるでしょうか。

キリストの御救い、福音とは、すべてキリストの御業によるのです。

私たちは、「それを信じた」だけです。

 

福音とは、そのようなものです。

「人間の努力による」のでは断じてありません。

「救われたら、神様のために働かなければならない」と語られることがありますが、これは福音のメッセージではありません。

「神様のために働こう」などという発想自体が、そもそも傲慢なのではないかとさえ感じます。

私たちは神のしもべであって、神のお世話係ではありません。

 

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。使途17:24-25

 

私たちが主役なのではなく、天地を創造されたお方が主なのです。

人間の努力や苦労など、葦の杖のようなものではないでしょうか。

 

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。ゼカリヤ4:6


したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16

 

人間の権力によるのではなく、人間の能力によるのでもなく、人間の願いや努力によるのでもありません。

ただただ「あわれんでくださる神による」のです。

 

福音とは、このようなものです。

 

話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。ルカ5:4-6

 

「私たちは夜通し働きました」。これが典型的な人間のことばです。

しかし、主様は「頑張り方が足りない」とか、「もっと頭を使いなさい」などとは、言われませんでした。

単純に、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」と言われたのです。

そこには、何の困難も、障害もなく、努力も、労苦も必要ありませんでした。

ただ、「そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。」のです。

これが福音の働きです。

 

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
エスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。ヨハネ21:3-6

 

「私は漁に行く。」「私たちもいっしょに行きましょう。」これが典型的な人間のことばです。

「しかし、その夜は何もとれなかった。」のです。

「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」主様は子どもたちのすべての必要をご存じでいらっしゃいます。このときも、力不足を責めることもなく、単純に指示を与えてくださいました。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」

これが主様の福音です。

 

したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16

 

しかし、人間は、すぐに「努力や労苦」の道に戻ろうとしてしまうのです。

 

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ガラテヤ1:6


しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。ガラテヤ1:8

私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。ガラテヤ1:9


あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。ガラテヤ3:3


しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。ガラテヤ4:8-9

 

私たちは救われたとき、福音を味わったのです。

なぜこの福音を忘れてしまうのでしょうか。

確かに聖書には、クリスチャンの成長を求めるみことばが多くあります。

しかし、それは人間のイメージする成長とは異なるのではないでしょうか。

成長とは、福音プラスアルファではありません。

福音に、人間の努力をプラスしてはなりません。それは奴隷のくびきです。

 

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。ガラテヤ5:1

 

「事は人間の願いや努力によるのではない」以上、努力の路線に歩むのは愚かなことです。

私たちは、幼子のように「あわれんでくださる神」にひたすらおすがりするべきではないでしょうか。

 

ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。ルカ10:21


しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。ルカ18:16

 

「私はアマチュアですから。」

吉永小百合さんは、静かに語っておられました。

吉永さんのピュアな透明感の秘密を垣間見られた気がしました。

 

吉永小百合と言えば、日本中でその名を知らない者はいないほどの大女優です。

その方が「私はアマチュア」と自覚して、ひたむきに役作りをきわめようとしておられるのです。

この頭が下がるような謙遜な姿勢こそ、吉永小百合さんの永遠の美しさの秘訣なのだと感じます。

 

 

私は、父なる神様と、主なるイエス・キリストの御前に常に生まれたばかりの幼子のようでありたいと願います。

どれほどみことばを読んだとしても、いつもアマチュアとして、まだ何も知らない幼子として、日々、新しくみことばの恵みにあずかりたいと思います。

 

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。Ⅰペテロ2:2

 

憐れみ深い主様が、愚かな幼子に過ぎない私たちをみこころに留めて、日々助けてくださいますように。

私たちが、キリストの御苦しみによって与えられた尊い自由の中に、喜んで従っていくことができますように。