権利という言葉が好きになれません。
権利という発想には、神に対する反逆の匂いがします。
それは人間的というよりも、むしろ機械的な思考ではないかと感じます。
電車にお腹の大きな妊婦さんが乗ってきたら、「大変ですね。こちらにお掛けください。」と言うのが、人間的な優しさでしょう。
しかし、もし彼女が「私は妊婦だから、優先的に座る権利がある。」と主張したらどうでしょう。
とても彼女へのいたわりの思いなど持てないのではないでしょうか。
言葉に出さずとも、心でそう思っているとしたら、それは本人にとっても非常に残念なことです。
席を譲られても、何の感謝もないからです。
優先的に座ることは権利だと考えれば、当然のことに過ぎず、譲ってもらえなければ大変なストレスになるのです。
席を譲ってもらうことは、権利ではなく、恵みなのです。
恵みであるということを忘れると、或いは無視すると、世の中は殺伐としたものになります。
権利と権利のぶつかり合いです。
さて、神様は、神を無視し、神に反抗してきた私たち罪人を救うために、主イエス様にその罰を負わせてくださいました。
そして、よみがえらせてくださいました。
この稀有な福音を信じる者は、罪赦され、救われます。
これは、神様の一方的な恵みです。
しかし、人は言うのです。
災害が起こるたびに。神様がいるなら、どうして助けなかったのかと。
あたかも、人には助かる権利があり、神には助ける義務があるかのように。
一体、私たちは神様に助けていただけるほど、神様を喜ばせるようなことをしてきたのでしょうか。
私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。ローマ15:1
確かに、聖書は、力のある者が、力のない者を助けるべきであると教えています。
しかし、それは神様が力のある者に対して求めておられることであり、力のない者が力のある者に権利を有しているという意味ではないと思います。
みことばどおり、力ある神様は、力のない罪人の弱さを担ってくださいました。
私たち罪人にあるのは、恵みであって、権利ではありません。
権利を主張する者には、いつまでも恵みの尊さはわからないでしょう。
権利という悪魔的思考を捨て、神様な前にへりくだり、すべては恵みであると受け入れるとき、人の世は穏やかになるのではないでしょうか。