クリスチャンは日ごとに弱くされていきます。
日々、弱く衰えていく中で、長い文章を綴ることに困難を覚えるようになりました。
しかし、主様から教えられたことは言語化していなかいと、すべて忘却していくようです。
どんなに短くて、まとまりのない、稚拙な文章であっても、その愚かさも含めて、今教えられているありのままの姿を記録しておきたい。
そんな思いで、このブログを始めます。
ずっと「強い人」を演じ、人からも「強い人」と思われてきた私は、聖書を通して、教えられました。
人はみな弱いのです。
しかし、私たちは「人は弱くてはならない」と思い込んでいます。
そして、「弱い人」は、さげすまれます。
「弱い人」は、生きていくことが困難になります。
私たちは、「弱さ」を見るとき、直感的に身の危険を覚え、恐怖を感じます。
それで私たちは「弱さ」を憎み、「弱さ」から目そむけ、「弱さ」を否定します。
しかし、人はみな弱いのです。
「強い」ふりをしても、強くなろうと努力しても、その事実から逃れることはできません。
「強くなければならない」と思い込んでいる人は、自分の弱さを認めることができず、他者の弱さに責任を転嫁します。
しかし人は、決して強くはならないので、こういう人はゴールに到達することがなく、いつも苛立ち、怒っています。
これは、悪魔が目指した、神よりも偉くなろうする道です。
まさに悪魔のサイクルです。
しかし、聖書の福音はこうです。
人はみな弱いのです。
しかし、弱くてもいいのです。
神様が私たちを弱いものとして造られたのです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。ローマ5:6
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。へブル4:15
弱くてもいい。
「主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。」です。
これこそ聖書の福音です。
私にとって、信仰とは、「事実を事実として受け入れること。」に他なりません。
信仰とは、ありもしない絵空事を、あたかもあるかのように盲信することではありません。
天地を造られたまことの神様が生きておられることは事実です。
人の責任は、神が事実として示された聖書のみことばを、事実としてそのまま受け入れることです。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。Ⅰテモテ1:15
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。マルコ10:15
私たちは、どんなに辛くとも、恥ずかしくとも、情けなくとも、「自分は弱い者である」という事実を事実として受け入れなければなりません。
嘘、偽りの上には、決して勝利はありません。
己の弱さを認め、キリストのうちにあって安息しましょう。
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。
ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。 Ⅱコリント12:9-10
弱さの中で、このブログをはじめます。
ブログを読んでくださる方の上に、主様から、豊かな恵みと平安がありますように。