いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

2001.7.29新生 イエス・キリストによる救いの証

 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 Ⅱコリント5:17

 

 私は良いものを何ひとつ持たない空っぽの器。
 主の愛は空の器を豊かに満たしてくださる。

 私は、初孫の姉と、当家一族唯一の男子である弟の間に生まれました。
 喜ばしくもない次女である上、不細工な子であったため、両親の他は、誰からもかわいがられませんでした。

 私は、引っ込み思案で陰気な子供になりました。
 何の取り柄もない者が、他者の愛情を獲得するには「努力」が必要なことを学びました。

 中学生になると、試験の成績は「学年順位」に置き換えられ、友達とも競争して、周囲の期待通りの成績を 取り続けなければならなくなりました。
 おまけに、両親はよくいさかいをしました。

 生きていることは、辛く、苦しく、悲しいことでした。
 楽しいことも時にはあるけれど、人生の大半は「苦行」でした。

 私には漠然とした自殺願望がありました。

 いったい人は、何のために生きていかなくてはならないのでしょうか。
 辛くても生きていかなければならないとしたら、「他人の役に立つため」でしかありませんでした。 「自分のため」ならば、死んだ方が楽に決まっていました。
 私には「生きていかなければならない理由」が必要でした。

 女性にとってそれは、「円満で穏やかな家庭を造ること」でしかないように思われました。
 中学生の私は、そのために最も賢明な方法は、夫の前で愚かな妻を演じること、大学に行かないこと だと考えました。
 私は女性に生まれたことを嫌悪していました。
 もし男性に生まれていたら、教師になりたかったと思いました。

 私は自分で決めたとおり、高校を卒業し、就職しました。
 ところが、20歳の時、一冊の本で、私の人生観は根底から覆されてしまいました。
 私は人生のすべての選択を、「女性だから」という理由で、決定してきました。
 しかし、その本には、「女性はこうあるべき」という考え方は、人為的に造られた価値観であり、 女性も男性と対等に生きるべき存在だと書かれていました。

 私の受けた衝撃は、尋常ではありませんでした。
 私は、「女性だから」という理由で、あらゆる夢を断念してきました。
 今さらそれが「真理」ではないと知らされても、私が「真理」と信じ、最善を尽くして歩んできた20年間は、もう取り返しがつきませんでした。
 私は怒り、また泣きました。しかし、その怒りには、ぶつける対象がありませんでした。
 なぜならそれは、自分で考え、自分で選択したことだったからです。

 涙のかわいた頃、これからの若い女性たちには、こんな悔しい思いを味わわせてはならないと切実に思い、 女性解放のために生きようと志しました。
 24歳の時に、縁あって労働組合の専従役員として東京に出向することになりました。
 私を必要としてくれる人、仕事があれば、そこでできる限りのことをしようと考えました。

 私にとって一番の恐怖は、「何もすることがないこと」、「誰からも必要とされなくなること」でした。
 しかし、7年後に職場復帰した時、私は誰からも必要とされなくなっていました。
 私が東京で培ってきた価値観、社会正義もまた、職場の人々にとっては、「真理」ではありませんでした。 共通の言語すら見出せず、私の精神状態は破綻寸前でした。

 私を守ったのは、高尚なものと信じていた「精神」ではなく、軽蔑していた「肉体」でした。 甲状腺機能亢進症を患い、入院することで安きを得ました。

 私は、決して変わることのない「永遠の真理」が欲しいと、切実に思いました。

 3年ほど前、T姉妹(女性クリスチャン)のご子息が、新人として私の職場に配属されました。
 彼はまだイエス・キリストを救い主として信じてはいませんでしたが、彼との会話から聖書に興味を持つようになりました。
 神が実在するなら、知識として身につけておくことが得策だと考えました。

 たった一人で、初めて導かれた「聖書学び会」で、姉妹たちは暖かく声をかけてくださいました。 その姉妹たちの「満ち足りた笑顔」を目の当たりにして、私は衝撃を受けました。
 そして、洗面所の鏡に映った自分の「死んだような顔」を見て、愕然としました。

 集会所を満たしている清らかな空気に惹かれて、伝道集会に少し通いましたが、すぐ続かなくなりました。
 けれどT姉妹は、遠方から伝道者を招いて数ヶ月に一度開かれる特別伝道集会がある度に声をかけてくださり、 一緒に行くことができました。

 私には若い頃から、「精神の美しさ」に対する強い憧れがありました。
 伝道者の「精神の美しさ」に触れることは、涙がこぼれる程に嬉しいことでした。

 2年以上、私は不熱心な求道者でした。
 けれど昨年の暮れ、年賀状を書きながら、「なんとか30代のうちに神様のことを知りたい。」と思いました。

 初夢を見ました。
 私は現実には通信教育の大学生でしたが、夢の中では、忙しさに紛れて、通信教育の入学申込みを失念していました。
 その時、ある兄弟(男性クリスチャン)に黙って申込書を差し出され、初めて締め切り間近であったことを思い出し、 私は深く感謝しました。
 目が覚めて、その夢は聖書に書かれている「この世の終わり」を示していると感じました。

 それから毎週日曜日、伝道集会に通い始めました。
 兄弟姉妹は一生懸命に、イエス・キリストが私の罪の身代わりとして十字架にかかってくださったことを信じることにより、 罪が赦され、救われるという福音を語ってくださいました。

 けれど、自分が罪人であることは充分自覚していても、それと2000年も前のイエス・キリストの死を結び付けて考えることは到底できませんでした。
 兄弟姉妹の足手まといになりながら、いつまでも理解できないことは屈辱的なことでした。

 私は実に不遜な人間で、自分に自信を持つことは良いことだと信じて生きてきました。
 しかし、神様は奢り高ぶった人間が嫌いでした。謙虚に生きようと思っても、どうしても実行できません。
 いくら祈っても、神様から何の応答もないのは、私のような不遜な人間が嫌いだからなんだと思いました。

 祈るなんて、無駄なことではないか。
 迷惑をかけるだけだから、もう集会に通うのもやめようと何度も思いつつ、兄弟姉妹の祈りに支えられ、なんとか続けられました。

 そして、7ヵ月後の夏、大学のスクーリングで東京に行き、東京にある集会所に集いました。
 そして、そこで語られた聖書のみことばに打たれました。

 

 神の和解を受け入れなさい。
 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
 それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 Ⅱコリント5:20-21

 

 メッセージに立たれた兄弟は、こう語られました。
 人間同士の和解では、悪いことをした人が、迷惑をかけてしまった人に、「ごめんなさい。」と謝り、 「これで許してください。」と損害賠償金を渡して、握手します。
 ところが、「神の和解」では、悪いことをした人間に対して、悪くない神様の方から、御子イエス様という 損害賠償金まで用意してくださって、握手しましょうと手を差し伸べておられるのです。

 その夜、いつものように祈り始めた時、突然、涙が溢れ止まらなくなりました。
 私はいつまでも応えてくださらない神様を、心のどこかでなじっていました。
 けれど、神様は私よりも何千倍も強い思いで、愛していてくださったことが痛いほどに伝わったのです。
 私はいつまでも泣きながら神様に謝り続けました。

 明日の朝、T姉妹にお礼の電話をしようと思いました。
 夜が明けるのが、どれほど待ち遠しかったことでしょう。

 ところが、朝、受話器を手にした時、ふと迷いが生じました。
 夕べのことは、一時的な錯覚だったのではないだろうか。 もう一日、よく考えてからでも遅くはない。

 受話器を戻そうとして、顔を上げた時、数日前に買った「みことばカレンダー」が目に入りました。 そこには、私の記憶にない、思いがけない聖書のみことばが書いてありました。

 

 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
 たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 イザヤ41:10

 

 衝撃とともに決心が与えられました。
 まことに、この神様は生きておられます。
 T姉妹が、わがことのように涙を流して喜んでくださったことも本当に感謝でした。

 私は何の努力もなし得ないまま救われました。
 それは、ただただ神様の一方的なあわれみ、恵みでした。

 人間が持つ感情の中で、一番美しいものは何でしょうか。
 以前の私なら、「愛」と答えたでしょう。
 けれど、弱く、愚かで、移ろいやすい「人間」には、「愛」は持ち得ないのではないかと思うのです。

 人間が持つ最も美しい感情、それは「感謝」ではないかと思います。
 それは何と幸いな境地でしょうか。私は今、「人は、神に感謝するために生きている」のではないかと思っています。
 私は人に「感謝」という素晴らしい感情を与えてくださった神の恵みに心から感謝します。

 永遠の真理は、万物を造られた神様の御手のうちにあります。
 それは人間には理解できないものでしょう。
 それでも、私は地上のいのちの日の限り、それを尋ね求め続けていきたいと願っています。

 

 イエスは彼に言われた。
 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 ヨハネ14:6

 

 もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 ヨハネ8:31-32