いのちのいずみ

クリスチャン・ブログ

クリスチャンの成長とは、キリストに似た者となること

 

 律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。
 けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。 マタイ23:2-3

 

 律法学者、パリサイ人たちは、「律法に関する知識」を持っていました。
 彼らは、聖書に精通していました。
 確かに知識は、愚かさに勝っています。
 しかし彼らは、主イエス様から叱責を受けました。それは彼らが、「言うことは言うが、実行しないから」でした。

 

 私たちは、どうでしょうか。
 人々は、私たちのうちに「キリストの似姿」を感じることができているでしょうか。
 私たちは、「キリストに似た者」であるより、むしろ「律法学者、パリサイ人に似た者」になってはいないでしょうか。

 

 聖書には、「知識(knowledge)」ということばと、「知恵(wisdom)」ということばが登場します。
 すべてに当てはまるわけではありませんが、「知識」とは、書物など第三者を通して、さしたる労苦を伴わずに得られるものであり、「知恵」とは、その「死んだ紙切れのような知識」が、自ら汗水流した経験によって昇華され、「実際に生きて働くまでに、本人の血肉となったもの」とは言えないでしょうか。
 この意味で、律法学者、パリサイ人たちの持っていたものは、「知恵」ではなく、「知識」に過ぎませんでした。

 

 あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。 ルカ11:46

 

 忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです。」 ルカ11:52

 

 私にとっては、「知恵」=「知識」+「経験」です。
 「干からびたような木(知識)」に、「水(経験)」を注ぐと、「実(知恵)」がなる、といったイメージでしょうか。
 光合成には、確かに「啓示の光(ルカ2:32)」が必要です。

 

 まだ「経験」の乏しい幼子には、当然ながら「知恵」はありません。
 「経験」に貧しいばかりか、「聖書の知識」さえも食べようとしない私のような愚か者の場合、主様のあわれみによって、先に「過酷な経験」が与えられ、餓死寸前にようやく「聖書の知識」を口にして、初めて「知恵の実」をいただくこともありますが、これは幸いな道ではありません。

 

 私たちは、まず初めに、こつこつと「知識」を蓄えておくと幸いです。
 そうすれば、あらゆる「経験」を通して、「知恵の実」を結ぶことができるでしょう。

 

 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。 詩篇1:2-3

 

 確かに、「聖書の知識」は必要なのです。
 しかし、「知識」とは、実に「両刃の剣」です。
 幼子に、剣を渡すことは、非常に危険なことです。扱い方を教えられていなければ、人を傷つけ、或いは殺してしまう「凶器」ともなりかねません。
 「知識」は、「人を高ぶらせ(Ⅰコリント8:1)」、「弱い人を滅ぼす(同8:11)」危険性をも秘めています。

 

 善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。 創世記2:17

 

 知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。 箴言3:18

 

 正しい者の結ぶ実はいのちの木である。知恵のある者は人の心をとらえる。 箴言11:30

 

 エデンの園の中央には、「善悪の知識の木」と「いのちの木」がありました。
 「いのちの木」は、「知恵を堅く握っている者の知恵」だと、聖書は言っています。

 

 「知識の木」から、「生のままで」取って食べるなら、私たちは必ず死ぬでしょう。
 「善悪の知識」、律法は、神のものです。
 それは神のものであるがゆえに、完全無欠です。
 完全無欠なものには、情け容赦はありません。
 「知識」が振りかざされるとき、不完全な私たちは、必ず死ななければなりません。

 

 しかし、「知識」そのものが、悪いのではありません。
 「知識」は神のものであり、良いものなのです。
 ただ不完全な人間は、「生の知識」を、自分の血肉とする消化酵素を持っていないのではないでしょうか。
 「生の知識」は、時が来るまで、忍耐強く反芻し続けなければなりません。
 やがて主様のみこころのときに、それぞれにふさわしい「経験」が与えられ、「経験」が消化酵素として働いて、初めて食べるのにふさわしいものとなるのでしょう。

 

 結局、私たちが聖書の「知識」を、「知恵」に昇華させるために必要な「経験」とは、私たちが「自分の弱さを知る」、「人間の不完全さを知る」ということではないでしょうか。
 「弱さを教えられた者の語る知識」は、真にあわれみ深い「知恵」となるのでしょう。

 

 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 黙示録22:1-2

 

 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。 黙示録22:14

 

 私は、「経験」によって「よく熟し、あわれみに満ちた知識」、すなわち「知恵の実」、「いのちの木の実」を食べたいと切に願います。
 「いのちの木の実」を食べる権利を与えられるのは、「自分の着物を洗った者」です。

 

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 Ⅰペテロ5:5-6

 

 私たちにとって必要な「知識」が、かえって私たちを「高ぶらせる」危険性をもはらんでいるとは、なんと恐ろしいことでしょう。
 「高ぶり」という危険な罠から逃れる方法は、謙遜です。神の力強い御手の下にへりくだることに尽きます。
 神の御前にへりくだることにおいて、「もう充分になった」ということは決してありません。
 日々、自分では悟り得ない罪を、悔い改めることができるように祈り求め、、主様に自分の着物を洗っていただきましょう。

 

 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。 Ⅱペテロ1:5-8

 

 知識には、自制が必要です。さらに、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛が加えられることによって、実を結ぶようになります。

 

 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 Ⅰペテロ5:7

 

 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。 ピリピ4:6-7

 

 私は、私たちの集まりの中に多くの「問題」を見るとき、心は曇り、「思い煩い」に占領されます。
 そして、その問題を「自分の持っている知識」によって、心の中でさばいています。
 しかし、聖書は「思い煩ってはならない」と教えています。さらにまた、「さばいてはならない」とも教えています。なぜでしょうか。

 

 兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
 律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。
 あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」 ヤコブ4:11-15

 

 「自分の兄弟をさばく者」は、「律法をさばく者」だと、聖書は教えています。
 律法とは、「神のおきて」であり、それをさばくことは、「神の摂理を否定すること」だと教えているのではないでしょうか。

 

 自分の歩みを振り返ったとき、実に愚かな道を選んで来たものだと恥じ入ります。
 けれども、私は多くの失敗を通して、「神のおきて」を学び、主様のあわれみによって「知恵の実」をいただきました。
 罪は正当化されるべきではありませんし、罪は犯さない方がよいのです。
 しかし、情けないことに、愚か者は、痛い目に会わなければ、教訓を得ることができないのです。

 

 苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。
 あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。どうか、あなたのおきてを私に教えてください。 詩篇119:67-68

 

 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 詩篇119:71

 

 「知恵の実」を得た者は、自分と同じあやまちを犯そうとする兄弟姉妹を、救おうと思いがちです。
 そして、善意であるにせよ、兄弟姉妹をさばき、思い煩うのです。
 しかしそれは、子どもの前にある石を、すべて取り除けてしまう「愚かな母親」と同じではないでしょうか。
 転んだことのない子どもは、転ぶことの意味を知らず、「受け身の術」を学ぶことなく、「知恵のない子」になってしまいます。

 

 あなたは自分の心を神の心のようにみなしたが、あなたは人であって、神ではない。 エゼキエル28:2

 

 私たちには、「あすのことはわからない」と同様に、その兄弟姉妹に対する、神の深遠なお取扱いの方法は、わからないのです。
 私たちは、いつもへりくだって、「主よ。私には、わかりません。」というべきしょう。

 

 たとえ私たちが思い煩ったとしても、「消えてしまう霧」、「ちりや灰」に過ぎない私たちには、何の解決能力もないのです。
 もし「思い煩う資格を持つ者」があるとしたら、それは唯一、解決能力を持っておられる神ご自身だけでしょう。
 私たちが思い煩うことは、その意味で、傲慢とも言える振舞いではないでしょうか。

 

 人の欠点をあげつらうことなら、どんな幼子でもできます。
 人の批判には、当たらずとも遠からずという面があります。しかし、それゆえ話は厄介になるのです。ある程度の事実を含んでいれば、人をさばくことは正当化されるでしょうか。
 一点の欠けを過大視して、多くの善意まで無効とみなしてはいないでしょうか。

 

 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。 ヤコブ2:10

 

 一つの欠けを許さないのは、「律法」の特徴です。
 確かに、「一つの欠け」は、目立ちます。「多くの欠け」以上に、気になったりします。それは、ある意味、期待の大きさなのかもしれません。
 しかし、この厳しさに、いったい誰が耐えうるのでしょうか。

 

 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。 ヤコブ2:13

 

 どんな長所であっても、あわれみのない心、思いやりのない心で見るならば、短所とさばくことも可能です。
 パリサイ人たちは、いつも「一点の欠け」をクローズアップして非難しましたが、主イエス様は、「その欠け」をも、実にあわれみ深く、ご覧になってくださいました。
 パリサイ人たちの「あわれみのないさばき」は、人を死に追いやりましたが、主イエス様の「あわれみ」は、罪人たちの心を、あたため、きよめ、真の悔い改めへと導きました。

 

 ある場合、「私の期待通りに動いてくれない」というだけで、相手をさばくことさえ可能です。
 しかしその人は、神のみこころの通りに動いているかも知れないのです。

 

 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。 ヨブ40:8

 

 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。 ローマ9:17

 

 モーセを幾度も煩わせたパロは、神の御目には「神のしもべ」でした。
 「パロの不従順」を通して、神はご自身の御力を示し、御名を全世界に告げ知らすことをご計画されていたのです。

 

 もしかすると神は、「その人の不従順」を通して、かたくなな私を砕くことを、ご計画されているのかも知れません。

 

 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 ローマ11:32-33

 

 私たちは、「問題」を見出したとき、性急に「自分の知識」を振りかざすことなく、この偉大なる神の絶対的主権のもとにへりくだり、「主よ。私にはわかりません。」と、助けを乞い求める心を持ち続けることができれば幸いです。

 

 最も恐ろしいことは、人をさばき始めると、何やら自分が立派な者になったかのような錯覚が生じてしまうことです。
 その批判が、どんなに的を射ていたとしても、だからといって、私が正しい者であるという証明にはなりません。

 

 あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。 ローマ2:1

 

 「あの人は愛がない」と人を批判している「愛のない人」、「人をさばいてはならない」と言って、「人をさばいている人」。
 私たちが、単に「知識」を持っているだけなら、必ずこのように愚かしい「誰が一番偉いか」状態になってしまうでしょう。
 人をさばくとき、私たちは「高ぶり」の罠に陥るのです。
 私たちは、人をさばくことは、非常に恐ろしい罠と悟り、これを手放さなければなりません。

 

 実のところ、「私は正しく、相手は間違っている」という「自己義認」こそ、私たちを苦しめている元凶なのです。
 私には、神様が私たちを、「一方が100%正しく、他方が100%誤っている」という関係に置かれるとは思われません。たとえ、みことばの理解においては正しくとも、行ないにおいて、まだ至らない点はないでしょうか。

 

 すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。 ルカ12:48

 

 私たちが、「問題」に遭遇するとき、「自己義認」の道に歩まず、絶えず、主様の光を求め、自分の至らなさを見出し、悔い改め続けるならば、もはや思い煩いに苦しむことはないでしょう。

 

 「問題」を放置せよと、言いたいのではありません。
 私たちは、まず神の絶対的な主権に身をゆだね、思い煩いをもゆだねるべきでしょう。まず主様を見上げて、眉を開き、力強い神の御手の下に安息しましょう。
 幼子の転ぶ権利を認め、あわれみと忍耐を持って見守り続けることを学びましょう。

 

 子どもは、大人の真似をすることによって、大きくなっていきます。
 子どもは、「親が教えた通り」に育つのではなく、「親がしている通り」に育つものです。
 子どもの目の前に、素晴らしい模範、目指すべき成長モデルがあることは、どんなに大きな助けになるでしょう。
 私たちは、ことばにおいてだけでなく、「行ない」において成長し、自ら良い模範となることを心がけましょう。

 

 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。 ヤコブ3:13

 

 ことばによって、助けることが神のみこころであれば、主様が道を備えられるでしょう。
 そうであっても、それが単なる「知識」ならば、人を助けるには不充分でしょう。
 どんなに正しい「知識」を語っても、内心で相手を小馬鹿にしているなら、相手の尊敬を受けることは決してなく、その正しい「知識」すら受け入れていただくことは困難です。

 

 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。 ローマ12:10

 

 たとえ、「問題」となっている点において、愚かであったとしても、その兄弟姉妹は、神の御霊をいただいているというだけで、充分に尊敬すべき存在です。
 私たちは、見えない神の御霊に、本当に恐れをもって、謙遜を学びましょう。
 「知識」は、「経験」によって、「知恵」にまで昇華されていなければなりません。
 私たちが、自分の弱さを教えられて学んだ「知恵」が、主様によって祝用されますように。

 

 先日、ある伝道者が、こんなことを学んでくださいました。
 クリスチャンの成長とは、知識が増していくことではなく、キリストに似た者となることである。

 

 主よ。どうかあまりにも愚かしくて、高ぶりやすい私たちが、「悔い改めることにおいて、成長した者」となりますように。
 私たちが、「律法学者やパリサイ人たちに似た者」ではなく、真にあわれみ深い「キリストに似た者」へと変えられますように。

 

 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。
 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。 ヘブル5:7-10